回顧と前進
第2話 私の生い立ち
父・松本 勇治-1 ~ 成績優秀の“知事賞”を返す ~
私が現在あるのは、相当、父の影響が大きいと思っています。それは、年を経るにつれて、その感が強くなるようです。そういう意味で、父のことを、少しくわしく述べてみたいと思います。
父は、栃木県の生まれです。
昔のことをひもといてみますと、かなり古い家柄であったようです。
松本という家は、藤原 鎌足の流れをくんでいるようです。
藤原氏が頼朝に亡ぼされた時、下野国の皆川城主に迎えられて、家老職についています。その後、皆川城が北条 早雲に攻められて落城してから、現在の栃木市の沼和田に住んで豪士となり、塔之内大尽と称されてきた旧家であります。
今の本家は52代目に当たるのですが、父の2代前に分家しています。
父は本来、片柳家の次男ですが、実父の従弟になる分家のほうに子どもがなかったので、明治5年(1872)に、松本家の養子になったのです。
父は、養父が函館で漁業を営んでいましたので、函館商業に入学しています。成績は優秀だったようで、卒業の時は知事から表彰状を受けたのだそうです。
ところが、それがあとで一つのエピソードとなるわけですが、とにかく、卒業してすぐ、神戸の貿易商に勤めることになりました。
2年ほど勤めたあと、貿易研究のために、明治26年(1893)アメリカに渡ったのです。
はじめ、ポートランドに上陸し、そこの日本人協会の寄宿舎にはいりました。
そこで一緒だったのが、あとで外務大臣になった、有名な松岡 洋右氏だったそうです。
松岡氏は、父よりも年下だったそうですが既に、その頃から熱心なクリスチャンで、当時は、未信仰の父と、宗教論を闘わせていたらしいいのです。
しかし、松岡氏の熱心な信仰心と、例の説得力の為か、初めて、キリスト教というものについて、関心を持つようになったのだそうです。
元来、父は真っ正直な性格なので、案外、素直に人間の罪を認め、福音を信じたのだろうと思います。それからというものは、貿易の研究は全部捨ててしまい、すべて聖書研究に没頭したようであります。
そこで、さっきの知事賞になるわけですが、父は函館商業時代、友達と、カンニングをしたことを思いだしたのです。
これは、よくある話ですが神の目から見れば明らかに罪悪であります。
それにもかかわらず、知事賞を受けたということは、神に対する冒涜(ぼうとく)だと思ったのですね。
父は、罪悪感のために、いても立ってもおれなくなってしまったのですね。
ついに、教会の集会に出て、自らを責める罪を、涙と共に告白したのです。
そして早速、母校に対して知事賞を送り返したというのです。
このころ信仰について指導した河辺牧師は、後に「松本さんは、あの時、ほんとうに正直でしたが、生涯、正直者で通しました」と、私の弟の頼仁(よりよし)牧師に語っています。
河辺牧師の個人指導を受けて、いよいよ真剣に聖書を学んだようです。
罪の赦しの福音に、魂の泰らぎを得、救いを受けた者の喜びに浸っていたのでしょうね。
こうした道を辿った父は、ただちに証しの生活に入っています。
別に、神学校へ行って専門の理論を学ぶというのではなく、キリストの福音を知らない人々に、神の審きと救いを告げずにはおれなかったのでしょう。
とにかく、わき目もふらずに、伝道生活に挺身したようです。
アメリカには、6年いましたが、その間、3日働いて1週間伝道し、1週間働いて、その得た金で、ひと月伝道する、というような生活であったらしいです。