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回顧と前進

第2話 私の生い立ち

『松本望著「回顧と前進」』

父・松本 勇治-2 ~ 温かく、心の広い真の信仰家 ~

証しの生活にはいって先ず始めたのは、路傍伝道です。

聖書の言葉を書いた立看板を肩に、人通りの多い街角に立って、下手な英語で大声を張り上げて証しをする。

ある時、異国人の辻説法を珍しがって、黒山のように人が集まった。交通のじゃまになるというので、巡査が来て中止を命じてしまったのです。それに対して言った父の言葉が、ふるっています。

早速、市長に面会を求め、
「キリスト教国のアメリカなのに、路傍伝道を認めないのか」
といって、つめ寄ったのです。市長は、笑いながら許可したそうです。

そこで、また同じ場所に帰って説教を始めると、さっきの巡査がやってきて中止を命じる。
「市長が許可したんだ」
という父の一言で、その巡査も、
「オーライ。大いにやりたまえ」
と、むしろ、励ましてくれたということです。

ある時は、日本から流れ込んできた売春婦の、たまり場などにも乗り込み、女たちに正業につくように説いたために、彼女らの抱え主に殴られたこともあったそうです。

とにかく、徹底した信仰の持主で、聖書のことは全部、信じきっていたようです。

だから、こわい者なしということでしょうね。しかも、祈りは必ずきかれる、ということを信じて疑うことがなかった。

ポートランドから、サンフランシスコへ移転する時のこと、旅費はない。しかし行かねばならぬ。

祈ったから大丈夫というので、すっかり旅支度をして、友人達にも別れを告げるのです。

すると、列車が出発する少し前に、同じ所へ行くはずの同宿の人が、急に行けなくなってしまい、その乗車券を恵んでもらって無事、目的地に着いたということです。

こういう事は、度々あったようです。

ポートランドに住んでいた頃、川向こうの町へ伝道に行こうとして川岸までやってきたが、渡し舟がない。しかし父は、その時、こう思ったというのですね。

イエス様は海の上を歩き給うたと聖書に書いてあるから、自分も必ず祈りによって渡れるはずだ。

そう思って一心にお祈りをした。

祈り終わって、いよいよ川に飛び込もうとすると、ちょうど、そこに川舟が通りかかったというのです。

「向う側へ渡るんだったら、乗せてやるよ」ということで、無事、向う岸へ渡ることができた、ということです。

このような6年間のアメリカ滞在の中で、東ヶ崎 菊松という方と知り合うようになっています。

この方は、ジャパン・タイムス社の社長で、ICL総長などもされた東ヶ崎 潔氏のお父さんであります。

この方の縁で、プレマス兄弟団、日本では同信会という教会の信者になり、祖国の伝道に心を燃やして帰国しているのです。

ところが、立派な貿易マンとして帰ってきたとばかり思っていた義父は、その頃でいう、所謂「ヤソバカ」になってしまっているわが子の姿を見て、立ちどころに勘当してしまったそうです。

しかし、それぐらいでひるむような父の信仰心では勿論ありません。

むしろ、抵抗が強ければ強いほど、信仰は強くなっていくのです。

勘当されても、郷里の栃木周辺の伝道に全身全霊を打ち込んでいっています。

桐生町の信者に、もと江戸の旗本で、維新のために職を失い、その後、桐生町役場の書記をしている菊池という人がいました。

その次女が、「けい」といい、近所の機織りを手伝って家計を助けていました。

小柄の美人で、父は気に入っていたようです。

貧しい伝道者ではあっても、父は人々に愛されていたようです。母の話しによると、女の子にも、もてたらしいのです。

しかし、父は他の人に目をくれず、1年間祈りつづけたという。

そして、遂に意を決して、菊池氏に結婚を申し込んだそうです。

この直情径行の、まっ正直な性格と信仰。そして体当たりの実践。

それでありながら、温かく、広い心の持主であった父。

このひたむきさと、独立独歩の精神と、人との交わりの大切さ。そういう生き方を、私は父からの遺産として受けているように思えるのです。そのことは、あとで、いろいろ思い当たることがあります。

さて、二人の結婚は、明治34年(1901)3月、ようやく新緑が萌えはじめようとする頃、父は30歳、母は20歳でした。

ところが、普通の華やかな結婚とは違って、式後3日目には、父母は、早くも伝道の旅に出かけているのです。

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