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回顧と前進

第1話 はじめに

『松本望著「回顧と前進」』

はじめに ~ 前進するため過去を振り返る ~

私が、かつて読んだことのある本に数奇伝というのがあります。

田岡 嶺雲という人の書いた自叙伝ですが、その中に、
“一体、吾等(われら)の如き、凡庸なる愚劣なる名もなき者、物の数にもあらぬ者が、自伝を公にしやうなどとは、おこがましき次第である。僭越至極の沙汰である”
という文章があります。

実は私も、前から自叙伝を書くようにすすめられておりました。しかし、嶺雲のいうように、自叙伝を書くほどえらいとも思っておりませんし、それに、回顧談にふけるような年齢でもないとおことわりしていました。

ところが、昭和51年3月、図らずも「勲三等旭日中綬章」という、それこそ身に余る栄誉に浴したのであります。そこでまた、自叙伝の話が、あちこちから持ちあがってきました。

そして、最後まで熱心に勧めてくれたのが電波新聞の平山社長だったのです。

平山氏とは、ずっと古いおつき合いでしたし、
「業界の歴史のためにも、社員のためにも是非」
といわれて、とうとうお引き受けすることになったのです。

嶺雲の文章にも
“今日は英雄の時代ではない。凡庸の時代である。天才の時代では無い。機械の時代である。選ばれたるものの時代では無い。均一均等の時代である。(略)聖人賢者の時代では無い。町人百姓の時代である”
と書いてあります。

嶺雲は、英雄や天才の時代は既に過ぎ去り、名もなき人民大衆こそ、時代を支えるものであり、それが時代をになう根源だといっているのです。それを思い出したとき、私もいくらか気が楽になりました。

平山社長が「社員のためにも」といわれたことも、なるほど、とうなずけます。

思えばパイオニアの草創時代、私と苦楽を共にしてくれた社員諸君。若き日のすべてを私の仕事のために捧げ尽くしてくれた妻・千代。それに、貧しく非力な私を今日まで陰に陽に励まし導いてくださった業界の先輩や同志の方々。

これが嶺雲のいう“根源の人々”でもあろうと思うのです。

一人の人間がいきてゆく為には、幾万の、いや幾十万、幾百万の人々の支えが必要なのですね。これらの方々に対する感謝の意味からも、私は自叙伝を書くべきだと思いなおしたような次第です。

もう一つには、前進する為には、過去をふりかえってみるべきだ、ということです。

いいかえれば、「創業の精神に還る」ということですね。

古代ローマの神話に、ジェイナスという神が出てきます。不思議なことに、この神は顔が前後に二つあるんです。

一つの顔はうしろを向いていて、たえず過去を見つめ、もう一つの顔は前にあって、将来を凝視しているのです。

この神の名まえから、ジャヌアリ即ち、1月という名称が生まれたといわれています。

常に過去をふりかえりながら、着実に前進するという、深い人生哲学をこの神話は語っているといえましょう。こういうことから、私は自叙伝を書くことに意義を感じたのです。

そのようなわけで、昭和51年11月2日から52年3月18日まで、112回にわたり「電波新聞」紙上に『回顧と前進』と題して連載することになったわけです。

ところが、さて、新聞連載が始まり、5、60年もさかのぼって思いだすとなりますと、ただでさえ記憶力の弱い私のこと、何か霧に包まれた景色でも見ているようで、はっきりしないところがあるんですね。

しかし当時の業界で、まだ現存の方もいらっしゃるし、万が一、間違ったことでも書いて、ご迷惑をおかけしてもいけません。

また、この自叙伝が業界史の助けにでもなればと思いまして、正確を期するため、いろいろ苦心いたしました。

いろいろな方にお聞きしたり、手紙や手帳、写真、はては古証文までさがしだして記憶を甦らせました。

その後、これを単行本にまとめて出版しないかという話もありました。しかし、この種の回顧録は、大方が自費出版の形をとるのが習わしですし、その場合、私はどうも自己宣伝になるような気がして、その気になれず、そのままにしていました。ところが、昨年の暮になって、電波新聞の平山社長から、
「これほどの貴重な原稿をこのまま眠らせてしまうのは、報道事業に携わる者として残念でならない。オーディオ業界の歴史を留める一助としても、ぜひわれわれの手で出版させていただきたい。ついては本も非売品とし、出版経費も全て私に負担させていただきたい」
との申し出がありました。

平山社長と私はこの回顧録の中でも再三触れておりますように、“浅からぬ縁”がございますので、氏のご好意を私も喜んでお受けすることにしたわけです。

今回、単行本にまとめるに当たっても、新聞連載での誤りを正したり、新たに補筆した点も何箇所かございます。しかし、人間のすることですから、間違いが多いと思いますが、どうかお許し下さい。

それでは、自叙伝の例にならって、私の生い立ちからお話することにいたしましょう。

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