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回顧と前進

第9話 終戦直後の業界

『松本望著「回顧と前進」』

終戦直後のラジオ生産 ~ 悪戦苦闘の新生ラジオ産業 ~

昭和21年度の生産計画の中にも、百万台近くは三菱、東芝、日立、富士通、日本電気、沖、岩通、住友通信、川西(現富士通テン)などの大手メーカーによる生産分が含まれていました。

それはともかくとして、ほかに求める娯楽施設もなかったし、情報を手っ取りばやく得られるということで、誰もがラジオを欲しがっていたのです。

どんな粗悪品でも、つくりさえすればひったくるように右から左へ捌(さば)けました。

そんな状況ですから、軍隊時代に通信機や無線関係の兵役に従事していた人達までが、即席のメーカーに変身して町のラジオ屋さんに部品を買い集めにくる人が多く、また、一部のアマチュアの方達によるラジオの“組み立て屋さん”が繁盛しはじめたのも、ちょうどこの頃のことです。


昭和23年頃の真空管メーカーの商標

一方では、無線会社の横流し資材がどこそこの倉庫にいっぱいあるから、○○万円で買わないかといった物騒な取引が白昼公然と罷り通っていた時代でした。

ところで、公(おおやけ)の資材配給にありつけない、われわれ中小の部品業者は、この際、結集して組合をつくり資材配給を受けようではないか、ということになりました。

理事長にラジオ統制組合の石井 浅八理事長を現職兼任のまま迎え、全国36社の中小部品業者が加盟して、昭和21年3月10日に「日本ラジオ工業組合」が発足したのです。

理事会社としては関東、関西からそれぞれ8社を選び、私も理事の一人に選任されました。

さて、GHQの指令を受けて、昭和21年度のラジオ生産計画に参加したメーカーは、関西では松下、早川(シャープ)、戸根、双葉、大阪無線。関東では山中、七欧、タカ、八欧(ゼネラル)、帝国電波、原口、日本精器、原崎無線など戦前からのラジオメーカーのほか、前にも述べた三菱、東芝、日立、日本電気などの旧財閥系の大手メーカーもこぞって加わりました。しかしながら、はじめの3か月の生産トータルは、計画の十八分の一という惨憺たるありさまでした。

理由はいろいろありますが、悪性インフレに加え、公定価格によって売値が決められていましたから、生産コストとの食い違いが甚しく、折角部品をかき集めてきて作っても損をする、というケースも多かったのです。それに軍需産業からの転換や各企業の再建計画にもとづく大量解雇をめぐって、ストライキが相次いでいたことにもよります。結局、年度末までには、48万台の生産しかできませんでした。それでも昭和22年度に入ると、いくぶん軌道に乗りはじめ、この年度には73万台を生産、続く昭和23年度は80万台と漸増していきました。

しかし、これではGHQの生産計画に対して“焼石に水”もいいところです。

このように生産が遅々としてはかどらなかった原因の一つに、肝心要(かなめ)の真空管が資材不足と生産設備の焼失によって、供給が間に合わなかったことがあげられます。

このため、いわゆる“球なしセット”が倉庫に山積みされるという珍現象を呈しました。

やっと真空管を入手して、出荷はしてみたものの、こんどはあまり長く倉庫に積んであったのでコンデンサーがパンクして、手直しが必要になるといったトラブルもあるなど、各メーカーともさんざんな目にあっていたようです。

真空管不足を解消するために、それまでほとんど東芝に頼っていた状態から、昭和21年に入ると、大手の松下、川西(後の神戸工業)、日立、日本電気などもラジオ用真空管の生産を本格的に再開しはじめました。

一方、中小真空管メーカーでも宮田、ベストなどを皮切りに、続々生産をはじめるようになり、23年末ごろにはなんと60余社を数えるに至りました。

こうなると“球なし”どころか余りすぎて在庫過剰となり、折からの悪性インフレによる金融難も手伝って、昭和23年後半には早くも工場閉鎖や会社を整理するところも出てくる始末でした。

さて、極度の品不足による悪性インフレに油をそそいだのは、政情の著しい混乱です。

終戦の年の8月17日、鈴木 貫太郎内閣に代わって皇族の東久邇内閣が成立しました。

そして、第一に敗戦の混乱を防ぐための治安維持事業に着手。第二には、戦後の後始末と復興のため、500億円にのぼる巨額な軍事処理費の歳出を決めたのです。この結果、物価はみるみる5、6倍にもはね上がってしまいました。

この東久邇内閣も、10月4日に出されたマッカーサー総司令部の「政治的自由の制限除去に関する覚書」を契機として総辞職し、元外相の幣原 喜重郎内閣が成立したのです。

幣原内閣は、間もなくインフレと闇投機の昂進を押さえるため、「金融緊急措置令」を発し、世にいう“新円切替え”を断行しました。生産による供給がないのに、通貨の流通だけはいたずらに増え続けていましたので、これを圧縮しようということだったのです。そこで、新しい紙幣を発行し、一人につき百円だけ旧紙幣との交換を認めました。それ以外の旧紙幣は、すべて強制的に預金させたのです。

そして1か月の引出し限度額を一世帯につき500円とし、そのほか特別の事情のある場合に限り、申請すると一定の枠内で余分にもらえるという、いわゆる“500円生活”を強制されました。

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