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回顧と前進

第8話 戦時色強まる業界

『松本望著「回顧と前進」』

父・松本 勇治の死 ~ 実に美しく、崇高に見えた ~

ところで、話は変わりますが、昭和15年(1940)の春、父は癌(がん)に冒されてしまったのです。

死の遠くないことを知っていながら、身体の苦痛を隠して教会員の結婚式を司ったりしていました。

骨身を惜しまず、奔走して縁を結ぶのが好きで、それまでに世話した家庭が百組になったと言って喜んでいた父でもありました。

千代の弟の谷山 吉三郎は、脊髄(せきずい)カリエスを患い当時の徴兵検査で追いもどされたような病身でした。

ところが、私の関係で谷山と父とも縁ができ、千代の弟のために河内から「みさを」という女性を嫁に世話しているのです。


音羽の福音商会電機製作所の前で筆者の家族と谷山 正三さん
(千代夫人の弟 左端)

日本中を伝道して歩いているので、どこにどういう人がいるか、よく知っているのですね。

その父が、自分の死を予期して関東、中部、四国の信者へ、いわば告別旅行をしているついでに、東京で一本立ちしていた私の家に立ち寄ってくれました。

たしか、昭和15年の4月頃ではなかったかと思います。

この時はもう福音電機も軌道にのりはじめた頃でした。

私の仕事が安定してきているのを見て、とても喜んで帰っていきました。

既に、その頃から食物が喉(のど)を通らず、私がすすめた酒といっしょに飲み込むと喉を通る、これはいいことを発見したといって喜んでいました。

帰る時の後姿が、心なしかさびしそうだったのが、今も目の前に浮かんできます。

父の病状が急変したと報らされたのは、その年の6月半ば頃でした。

千代は一足先に、子どもを連れて看病にいきました。

私も仕事の段取りをすませて、22日の朝、急いで畑原の家へ行きました。

父は、私のくるのを心待ちにしていたようです。

父はすべての準備をすませていました。友人、知人、多くの親交のあった人達に訣別の手紙と写真を送っていました。告別式のために葬儀屋との打合せさえ済ませていたのです。

大きな墓標も黒崎 幸吉氏にお願いして、月日を書き込みさえすればよいだけにして、枕元に置いてありました。

この日の朝から、父の病状が変わってきた、と妹達が話してくれました。

痛みを訴える声も出なくなったということです。

やがて、父には死期がはっきり分かっていたのか、急をきいて集まった子ども達に、
「いいかい、みんな。お父さんが召されても泣くんじゃないよ。喜ぶんだよ。……
今日ひとり、神に頼りて歩むなり、こよい召さるも勇みて昇らん。みんなおいで。とうさんが抱いてあげる」と言って、家族みんなを一人一人抱いたあと、母に、
「母さん。最後のキス」と求めるのです。

死を目前にした父に、最後のキスを求められた母は、泣きながら子ども達みんなの前で、くちづけをしました。

それが終わると、父は、
「さあ、みんな一人ずつ、お父さんに水を飲ませておくれ」と頼むのです。

はじめに母、それから兄、私、弟、妹と順番にそれぞれ自分の名まえを呼びながら、コップで一口ずつ父の乾いた口にそそぎました。

父は、お祈りをしているような静かな顔で、家族みんなが差し出す水を受けていましたが、これが最後の水でした。

ちょうど、そのとき、柱時計が午前零時を打ちました。

6月23日が明けたのです。

「ああ、12時が鳴れば、もう聖日だなあ。よかった。……ほんとによかった」父は、翌日を待って死にたかったんでしょうね。

寝たままでしたけれども、突然大きな声で、“天皇陛下万歳”“松本家万歳”と叫びました。

それから早くお湯を沸かせと命じ、たらいにお湯を満たして、家族に助けられながら身体を洗い清めました。

やがて、父は絶筆をノートにしたためました。

―古き人、苦しみのうちに世を去れり。新しき人、生まれたりと思う―

という父の言葉を、私は今も忘れることができません。

母も子ども達も、厳粛な気持ちでノートをまわして読みました。

父が息を引きとったのは、午前3時35分でした。

母は泣きながら、父の手を握っていました。

しばらくお祈りしたあと、父にフロック・コートを着せ、手を合わせてあげると、自分の親ながら、実に美しく崇高に見えました。

一生を神に捧げ尽くして悔いなかった父。

一切の虚偽、へつらいの無かった父。

その父は、いまやすらかに昇天したのです。

父が生前に書家の黒崎 幸吉氏に書いてもらってあった墓標には、
―されど、われわれの国籍は、天にあり―
と、墨痕(ぼっこん)鮮やかに書かれてありました。

たとえ貧しくして死んでいった父ではあっても、息子の私から見れば、最高の父として、また私の生涯の心の師として、いつまでも映るのです。

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