回顧と前進
第2話 私の生い立ち
ふるさと神戸 ~ “不屈の魂” 秘めた青年伝道師 ~
私のふるさと神戸は、海と山に恵まれた土地です。六甲連山が東から西へ走っていますが、そう高くはありません。
最高峰でも千メートルそこそこです。東の方の断層崖は、やや緩やかですが、西はかなり急な傾斜で、階段状になって海へ落ちています。
その狭いところを東西に、細長い帯のような市街がつづいています。
南北は山裾まで色とりどりの家並みがはい上がり、六甲の緑と美しく調和しています。
わけても見事なのは夜景です。「百万ドルの夜景」というキャッチフレーズで、六甲口から山上駅までロープウェイが通じています。
ここからは金紗の帯のように光った神戸の夜景が、ひと目で眺められます。
この六甲の山々に囲まれている神戸は、山陰のような冷たい冬の偏西風は吹きません。
おまけに、南のほうは瀬戸の内海で、1年を通じて暖かく、住みよいところです。
だから、ここに住む人々の心も何となく温かく、人なつっこいのです。
神戸の港のことを、昔は務古(むこ)の水門(みなと)と呼んでいたそうです。
神功皇后の三韓征伐をはじめ、遣唐使や留学生たちを乗せた船がこの港から、所謂 “茅淳(ちぬ)の海”を渡って出かけたといいます。
万葉集にも、ここを詠んだ歌がいくつかあります。
たしかに神戸は、日本文化発祥の地といってもよいでしょう。
さて、いろんな歴史を経て、やがて幕末になり、外国との通商がはじまると、いよいよ神戸港が世界一流の国際港として発展することになります。
神戸が貿易港となるために、居留地が設けられたのが慶応3年(1867)です。
海岸通りには、つぎつぎと外国人の建物がふえていきました。
ルネッサンス風の古雅な石屋根や、イオニア式の石棺など、ユトリロの絵にでも出てきそうな出窓のついた洋館。それらの建物の向こう側に、各国の色とりどりの国旗が、船の帆柱にひるがえっている波止場が見えます。文字通りエキゾチック街、「ミナト・コウベ」であります。
こうした、近代的でモダンな反面、この街には各地から一攫千金を夢みて、いろんな人達が集まり、一種の植民地的な感じのするところでもありました。
ですから、夢に破れた人達が、ひとところに、たむろする貧民街もあったのです。
それが葺合地区で、新生田川の東岸の下流、北本町6丁目の一帯です。
俗に「新川」と呼ばれ、神戸市内でも屈指の貧民街でした。
そこには百人部屋がいくつも造られており、通称「アンコ」と呼ばれる港湾労務者のたまり場になっていました。
また、二畳長屋というのもあったようです。一戸を二畳ずつに仕切った部屋に、なんと8, 9人もの家族が、重なり合って寝起きしていたといわれています。
その人達の仕事は日雇人夫をはじめ、傘直し、下駄直し、門付け芸人、易者など、とにかく種々雑多です。
そういう環境ですから、生活も思想も険悪になり、刃傷沙汰が絶えたことがないわけです。
後年、「死線を越えて」という小説で有名になった賀川 豊彦先生も、ここに一戸を借りうけキリストの聖旗を高く掲げて、すさみ切った彼等に戦いを挑んだところです。
いまは、すっかり街もきれいになり、四方に舗装道路が通り、家並みも近代的建築で、昔の面影はほとんど残っておりません。ただ僅かに、港湾関係の古びた倉庫や、土地の住人の家が、せまい路地に向かい合っているところが少しあるだけです。
さて、賀川 豊彦先生の伝道より7年前、すなわち、明治35年(1902)のころ、30も半ばを過ぎた男が、神戸に来て伝道を始めました。
大柄の、見るからに純朴そうな顔、静かではあるが、不屈の魂を秘めているかのような目の輝きを持った青年伝道師。
古びてはいるが、きちんとした洋服を着たり、時には紋付はかまを着て現れたりする。
頭には山高帽をかぶり、むしろユーモラスな感じの人。これが私の父、松本 勇治です。