回顧と前進
第6話 揺籃期のラジオ業界
すべてが “さるまねの時代”
当時、あざやかな手並みをみせた商人として、ローラーカンパニーの事を思い出します。
アメリカのローラーという会社で、ラッパ型スピーカーの高級品を売っていましたが、神戸の日米商会の渡辺さんという人がそれを一手輸入販売していました。
国産スピーカーは、上等品でも10円くらいでしたが、このローラーは50円もするんです。
国産スピーカーは、鉄片の振動板が電流が大きくなるとビリつくので、アジャストするようになっていました。ところが、このローラーのスピーカーは、バランスド・アマチュア方式で、振動板は天然雲母で出来ているのです。
スピーカーの口径も30センチ以上もあり、当時のものとしては最高の音質で、50円でも飛ぶように売れていました。
ところが、これについて変な噂が立ってきたのです。
ローラー社製スピーカー
「あのローラーのスピーカーは、USA製ではなく国産品らしい」
ということなのです。
それにもかかわらず、品物は相変わらず売れ続けていました。
そのうち、日米商会はローラーカンパニーと社名を変更してしまいました。
ローラースピーカーは、初めのうちは本当にUSA製だったのですが、それがいつの間にか、国産に変わっていたのだそうです。
製品は東京で造られていましたが、それを誰も見分けることが出来なかったのです。
それほど見事だったわけです。
私も真偽のほどは分からないのですが、ローラースピーカーの特許権や商標権などは、日本の日米商会が持っていたようです。いまでは、信じられないような話しですがね。
悪質といえばそれまでですが、当時すべてが猿真似時代だったラジオ業界では、こんな無茶な商売も通用したんでしょうね。
やがて巨万の富を築いたローラーカンパニーは、移り変わりの激しい業界から手を引いて、トーキーの国産化に乗り出すのです。そして後には国産トーキー業界に重きをなすまでにいたるわけです。
もう一人、忘れられない人に早川さんという方がいました。
シャープの早川 徳次さんとは関係ありませんが、この人も成功者の一人です。
大阪の船場の額縁屋で、金水堂という相当な資産家の長男でした。
この人はラジオマニアで、はじめラジオ部品の販売をしていたのです。
後で、ある優秀な金属加工工場の主人と提携して、小物やトランスなど、部品類の製造販売をはじめたのです。
数量はあまり多くなかったのですが、高級品ばかりで通信販売も兼ねていました。
この店が、今も高級品で通っている“ラックス”です。
このように成功した人も何人かはいましたが、とにかく、当時のラジオ業界というのは、全く混沌としていたのです。
それからみると、高木社長の新しい感覚やアイデア、行動力というのは大したものだったといえます。
ところが、悪くなればなるほどあせるもので、たとえば鉱石ラジオでスピーカーが鳴るという発明家が現れ、これにも手を出しました。
しかし、僅かなバッテリーでスピーカーが鳴るといっても非常に不安定で、増幅に使っているカーボンが、湿気をおびてくると音が出なくなり、トントンと叩くと鳴りだしたりするというような品物でした。
売るには売ったものの、ほとんどが返品の山で、とうとう失敗してしまったのです。
まだほかにもありました。
新しくラジオが開発され、電池のいらないエルミネーターになってからですが、当時真空管がよく切れるので、取り替えが自由にできるソケット式が常識でした。
それにヒントを得て、他の部品たとえばトランスやバリコン、抵抗、コンデンサーなど主要部品も、全部さしこみ式になるラジオを設計した人が、高木社長のところへ売り込みにきたのです。
それに高木社長は飛びついたのです。アイデアとしては斬新ですが、これを商品化するには大変な資金がいるのです。
ほかの会社と共同で資金を出してやらせたのですが、とうとう設備をしただけで日の目を見ませんでした。