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回顧と前進

第6話 揺籃期のラジオ業界

『松本望著「回顧と前進」』

驚異的なテンポ “技術革新”

このような時勢ですから、製造は他人まかせ、といった高木商会の経営形態では、商品の質が悪くなるのは当り前です。返品も多くなり、経営はどんどん悪化していきました。

しかも、この業界は驚くほど速いテンポで技術革新が進んでいったのです。

私は、その当時の関東のことについては、よく知りませんが、業界は関東勢が主導権を握っていたようです。

部品の国産化は東京から始まっています。

特に真空管は東京のようですね。

鉱石ラジオから真空管に代わったのは、全くあっという間でした。


高木商会で行われた“アンダーソン抽選会”のようす

今の東芝がサイモトロンと銘打って量産をはじめたのですが、UV199、UV201などはいくら造っても需要に追いつかない状態の時もあったようです。

そのほか、NVV、TVV、エレバムなど、いわゆる町工場の製品が市場を賑(にぎ)わしていました。高木商会も安田さんのベスト真空管で作ったアンダーソンという名前の真空管を売っておりました。

もともと舶来の模倣ですが、当時、RCAラジオトロン、フィリップスビクトロン、ドフォーレなどの輸入品は、余りにも高価でした。

その後、市場には、ドン、HW、OK、イーストロン、ノーブル、NDKなどが出ていたのを思い出します。

「ラジオは、電灯線から」というキャッチフレーズで電池式から交流化されたのは、昭和3~4年(1928~9)ごろからだと思います。

この交流化も、やはり東京からでした。

エルミネーターといって、電池の代わりに、これを取り付けて交流式にするのです。

湯川電機のエルミネーターキットは、よく売ったものです。

これは思い出ですが、希望堂時代、ラジオ組み立てコンクールで1等をとった時は、湯川のエルミネーターキットを使ったことを覚えています。

そのうち、受信機は全部交流式になり、電池屋は大打撃を受けてしまいました。

交流式といっても、検波は鉱石を使っていて、初めの頃はハムも多かったのですが、その後真空管やコンデンサーの発達によって、ハムもなくなり、出力も大きくなりました。

高木商会が時代の開拓者的な気持ちで始めた“コロナー”も、部品の不良が多くて、あまりよい物ができないうちに、このエルミネーターが出始めたわけです。そのため、2,3年のうちには、電池式などは、地方の電気のない所へ少し売れる程度になってしまいました。

この業界の進歩は販売面でも著しく、昭和3,4年ごろには、もう招待、景品売り出しが盛んでした。高木商会も“アンダーソン抽選売り出し”など、派手にやりました。

東京の業者はもっと豪勢で、話によりますと、とりわけ派手だったのは、エレバムの発売元・羽根沢電機だったとか聞いております。

招待売り出しの先駆者は、ベストの安田さんで、昭和2年頃、東京や大阪の業者84人を熱海に招待しています。このときは真空管1ダース(60円)で一人招待というものでした。

このように売り出しもだんだん華やかになっていき、昭和7,8年頃には、三共電機の満州旅行売り出しが話題を呼びました。また、その頃、三共電機と高木商会が組んで、シンガースピーカーを3か月でいくら買えばオート三輪がつく売り出しをやりました。当時はまだオート三輪車は大変珍しい品物でした。私自身、日本橋の勝本商店、大野商店、服部ニュートロン、十一屋さんなどに、この景品を6台ほど届けた記憶があります。

ところで、私が希望堂を閉じたころは、もう相当立派なラジオ受信機メーカーが出来ていました。

最も有名だったのは、東京田辺商会のコンドル受信機でしたが、三共電機もスピーカーだけでなく、シンガー受信機を作り始めていました。

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