回顧と前進
第6話 揺籃期のラジオ業界
ダイナミック・スピーカーとの出逢い
当時の拡声器業界も、やはりラジオと同じような歩みをしていました。
はじめは、朝顔の首を曲げたような格好をしていました。
ユニットは鉄片振動板のレシーバー(電話用)に、拡大ホーンをつけたものでしたが、そのうちアメリカからマグネチックが入ってきたのです。
はじめは、コーン紙もむきだしのままでしたが、そのうち、金属のケースに入れられるようになりました。
何でも真似事の上手な日本人は、これもどんどん国産化していきました。
昭和6年(1931)頃の、大阪の村上製作所のワルツ、島商店のセンター、東京の三共電機のシンガーがその例です。
これも、はじめはむきだしのままでしたが、後に八角形や丸型の金属ケースに入れられるようになりました。他にも、スピーカーメーカーがかなり出てきました。
スピーカーは、マグネチックからインダクトダイナミック、バランスドアマチュア式を経て、ムービングコイル式、現在のダイナミック・スピーカーが完成されたのです。
このころ、ピックアップというものが出てきて、蓄音機のサウンドボックスをピックアップに替えてレコードから音源をとり、ラジオの増幅を利用して電気蓄音機が出来はじめたのです。
「回顧と前進」では、フィルコの型番が特定されていません。このころ日本に入っていたのは、このModel87(1929年製造)もしくはModel96(1930年製造)ではないかと思われます。
(上記写真はアンティーク・オーディオ収集家 吉澤様よりご提供いただきました)
あまりよい音ではありませんでしたが、そのうちサイモロトンがスクリーングリッドのついたUY224を完成して、音量も大きく、音質もだいぶ良いものになってきました。
そしてUX245や整流管KX280が完成して、大出力化に成功、いわゆる電蓄時代が到来したのです。
私がダイナミック・スピーカーと出遭ったのはマグネチックが日本では主流の頃です。
ひいきすじの一人がやってきて「電気蓄音機にものすごくいい音のするのがある」というのです。
船場の呉服屋さんでしたが、そこの若旦那というのは、いまでいえばアマチュアのオーディオ評論家といったところでしょうか。
訪ねて行くと、そこの若旦那が床の間にでんと置いてある電気蓄音機を聴かせてくれました。たしか、洋盤のシンフォニーだったと思います。
それがアメリカ・フィルコ社製のダイナミック・スピーカー付のコンソール型電蓄でした。
とにかく、針をレコード盤におろした途端、私は今まで聴いたこともない、すばらしい音に圧倒されてしまったのです。
あの時の感動を、どう表現したらいいのか、とにかく私はびっくりしてしまいました。
今まで聴いていたマグネチック・スピーカーがまるで子供のおもちゃみたいに感じられたことを覚えています。
これだ。この音だ。ダイナミック・スピーカーでなければ駄目だ。
私は、ほんとうにそう思いました。ただ、ただ感動です。
ようし、いつかは、きっと、こんなすばらしいダイナミック・スピーカーを作ってやろう。スピーカーは、これに限る。
流れてくる音楽を聴きながら、私はそう決心したのです。
私の将来を決定的にしてくれたのが、この電蓄との出逢いだったのです。
さて、当時はラジオやスピーカー、ピックアップなど、国産、輸入品が入り乱れて、新製品がどんどん出てくる時代でした。
ちょっとした目新しいものを作っても、目標の半分も売らないうちに、また他社から新しい製品が出るという有様でした。
そんなめまぐるしい状況の中で、高木商会もいろいろやってはみるのですが、それが、すべてノーヒット、ノーランの連続だったわけです。
しかし関西でも、いち早く手がけた人のなかにも、健全経営で勝ち残った会社もあります。
現在のシャープ・早川金属工業所はその代表的なひとつでしょう。社長の早川 徳次さんはご承知のようにシャープペンシルの考案者で、関東大震災に罹災し大阪にこられた経営のベテランです。
ターミナル、ラッグ、ビス、ナットなどの小ものの部品から始まり、やがてバリコン、トランスなどと手を広げていきました。
そして、受信機を売り出されたのは、相当の基盤をつくられてからのことです。