回顧と前進
第6話 揺籃期のラジオ業界
ラジオ屋で一旗あげよう
私が高木商会に入ってから6~7年たった頃までは、いわゆるラジオ業界の揺籃期で有名・無名を問わず、いろんな企業が入りこんでいました。
高木商会もその一つだったのです。
社長の高木 庭二郎さんは、神戸市の立身出世組の一人でした。
はじめ写し屋から身をおこし、カメラの輸入販売で成功して、東京・京都・大阪に支店を持ち、100名ほどの社員を抱えた、立派な会社でした。
私が入社した当時のラジオ業界といえば、アメリカ製をはじめ、イギリス、ドイツ、イタリア、オランダ製などの輸入品が多く、国産化は未だ軌道に乗っていませんし、まだまだよい製品はありませんでした。
当時の谷山商店
高木商会はその中でも、アメリカのギルフランという、四球から六球まである高級ラジオの関西総代理店として、輸入販売をしておりました。
そのほか、ブルーポイントや、N&Kのレシーバー、MTT小型ラッパなど、神戸、東京、横浜の輸入商が持ち込んだものを右から左へ売りさばくブローカー的な仕事もやっておりました。
まことに目まぐるしい商売で、買った商品を1週間くらいで売りさばいてしまうこともしばしばでした。
また、RCAスーパーヘトロダインの輸入も大当りしました。
高木商会も、このくらいで手堅くやっておればよかったのですが、当時の国産化の波に乗って、国産の部品を使った“コロナー”という名の、プライベートブランドの三球再生式ラジオを造りはじめたのが、躓きの基になってしまったようです。
私は入社間もなく、京都支店勤務になったものですから、製造のことはよく知らないのですが、型はギルフラン四球に似せて、前面パネルを傾斜させたものでした。そして、大きな丸ダイヤルが2個つき、真空管は201が3本、前面から抜き差しができるように頭が半分表にでているというような面白い格好をしていました。
これを国産部品業者の少ない大阪で、相当の資金を出して製造させていたのです。
当時、ラジオの聴取者は7割あまりが鉱石式で、電池式は3割にも満たない状況でした。
それというのも、真空管を使った受信機は逓信省の型式証明があるものだけに限られ、沖電気、安中電機など、無線機会社しか製造できなかったからです。
その後、型式証明なしのものも自由になってからはRCA、ギルフラン、テレフンケンなど、舶来物がどっと入ってきました。
しかし、とても値段が高く、ギルフラン四球が250円、五球が400円、RCAスーパーは1,000円もしており、国産で造ろうとする人もでてきたわけです。
高木社長もその一人だったのです。
また、この三球再生式ラジオ“コロナー”の販売拡張のために大投資もしました。大阪支店も、その一つでした。
また当時、“コロナー”の他にも、ドイツ製のラッパのイミテーションである“アミーゴ”とか“デンキー”という小型ラッパの販売元もやっていました。製造は大阪の辻丑さんです。
この頃、まだ大手の電機会社は、ラジオにはあまり手を出していませんでした。どちらかというと卸屋の資金で、下請け工場が造るというケースが多かったのです。
従って、技術者らしい人は少なく、物真似上手の職人さんが造るわけですから、よい物ができるわけがありません。
このほか、高木商会は東京のメーカーの関西総代理店も引き受けていました。当時の傑物、宮永 金太郎氏が経営している三共電機の総代理店をしていたわけです。
宮永氏は、スピーカーメーカーから始まり、やがて、それを全国に売り出すのですが、ラジオが交流式にかわってからは受信機も手がけ、全国の電力会社のチャネルをつかって大成功した方です。
この頃の販売業者というのは、信用のおける店は、わずかしかありませんでしたね。
なにしろ、新しい業界ですから、いろんな企業から転進して来た人の集まりだったのです。
しかも、それらの多くは、今までの事業が思わしくなくて、ラジオで一旗あげてやろうという人達が多かったのです。
だから銀行では、ラジオ屋には金を貸すな、という命令が出ていたほどです。