回顧と前進
第4話 丁稚奉公から
無線技師になる-2 ~ 最も望んだラジオ屋に変身 ~
当時の大学卒が、せいぜい35円から40円位の月給だったのに、中学もろくに出ていない私が、40円也の初任給をもらっているんです。
当時としては、よっぽど貴重だったものとみえますね。
私もまた、若さにまかせて、京都のYMCAで、無線機の講習会の講師になったりしたこともありました。
今から思えば、全く汗顔の至りです。
会社は山手通りの1丁目で、ちょうど生田神社の裏側にある三角町場のところにありました。
すでにラジオ放送が始まって3年ほど経っていました。
欧米から入ってきたとは言いながら、日本人は、すぐ真似をして同じようなものを作りますので、進歩の度合というのは驚くばかりの速さでした。
当初JOAKが開局する頃、放送関係者は「せいぜい3万人も聴取者ができれば成功だろう」などと言っていたのですが、これら関係者の予想をはるかに上まわりました。
このような状況ですから、この新しい分野に誰も彼もが進出しようとし、有名、無名たくさんの企業がラジオをてがけるようになりました。
私は、関東のことはよく知らなかったのですが、商品だけはどんどん大阪など西の方にも流れてきていましたので、東京における業界がいかに盛んだったか想像がつくというものです。
その頃は真空管も輸入品のほか、国産品もたくさん出まわっており、私が覚えているだけでも、舶来品ではRCAのラジオトロンのほか、ビクトロン、ドフォーレ、国産ではNVV、サイモートロン、TVV、エレバム、ベストなどの銘柄が売り出されていました。
部品ではバリコン、トランス、抵抗、マイカドンなどの舶来の模造品ですが、どんどんできておりました。性能的にも信頼できるものは少なかったようでしたが、それらを使った受信機を売り出すメーカーもすでに出ていたほどです。
JOAKが開局して3年でこのありさまですから、この業界はよくよく進歩の激しい業界だということがいえるでしょう。
私も、1年間もの長い間、それも大病と闘いながら、それを乗り越え、そのおかげでラジオに親しむようになりました。
そして高木商会から無線技師として招聘されるようになった運命をふりかえってみる時、目に見えぬ力に引きずられているんだなあ、と思わずにはいられません。
「地球の闇をくぐって、草木はその根を下に伸ばす。それは光を求める力を養わんがため 」
誰のいった言葉かは忘れましたが、ほんとうに、そうだなあ、と思うことでした。
ところで、高木商会では米国製のギルフランのニュートロダイン式四球、五球受信機の輸入、及びRCAのスーパーヘテロダインなどを販売していました。
いずれも電池式ですから、A電池として蓄電池、B電池として乾電池がいるわけです。
このための電池屋さんもたくさんできて、東京では高砂、屋井、岡田などの乾電池屋さんが、関西では小森、朝日、京都のGS、湯浅などが大車輪で生産していました。
まさに電池屋さんの最盛期といえましょう。
私は、ギルフランの受信機の販売、サービスのために高木商会に入社したのですが、取り付け作業を誤って、A電池のターミナルにB電池の端子が接触し、真空管を一度に4本も5本も吹っ飛ばしてしまったこともあります。
こうした失敗は私だけではなかったようで、同業者の同じような話をあちこちで聞きました。
なにしろ技術の進歩は、非常なスピードで進んでいるのに、技術者の方はその技術を追っかけていくのですから、失敗が出るのも仕方ありません。
それにしても、1本10円も15円もする真空管を一度に4本も5本も吹っ飛ばすのですから、考えてみると勿体ない気がします。
ここで、私の運命は、ラジオ屋へと大きく転換することになりました。
将来がここで約束されたといっても過言ではありません。それは私の最も望むところだったのですから、まさにところを得たとでもいうのでしょうか。
自分でも“これだ!!”という業界に身を投じることができ、神に感謝したい気持ちでいっぱいです。
大正15年(1926)21歳の時、私は高木商会の京都支店へと転勤することになりました。