回顧と前進
第4話 丁稚奉公から
無線技師になる-1 ~ 1年間の闘病乗り越えて ~
熱にうなされ、うとうとしている時、ふと目をさましてみると、母がお祈りをしていることもありました。
母は割合、きつい人でした。父にふさわしい人になるために、一心になって勉強している真剣な顔を見るとき、母はこわい人だなあと思うこともありました。
しかし私は、病気をして、はじめて母の深い慈愛を知りました。
子どもを何人も早死にさせている母にとっては、それこそ必死の思いだったのでしょうね。
それにしても、沢山の子どもの面倒を見るかたわら、下宿人の世話、それに伝道師としての父の仕事へ協力しながらの看護は、それこそ大変だったに違いありません。
高木商会京都支店へ転勤になった当時の筆者(後列左側)21歳
そういうことは、おくびにも出さず、いつも私の枕もとで励ましてくれるのでした。
私はそのあと、肋膜になり、最後は敗血症にまでなってしまったのです。
敗血症というのは、血が出ると、止まらないという恐ろしい病気で、医者のほうでも、半ば匙(さじ)を投げていたということでした。
熱はないのですが、体が冷たくなってしまうのです。凍死する人は、自然と眠くなって、そのまま死んでいくといいますが、私もそれに似たような毎日が続いていました。
そんな時、よく母は聖書を読んでくれました。
母のやさしい声を聞いていますと、不思議に心のやすらぎと、強い生命力が湧いてくるように思われるのでした。
自分は運の強い男だ。そうでなければ、あの大地震の時だって、工場の大きい柱の下敷になって、今頃は死んでいたかも知れません。
しかし、あの時だって、かすり傷ひとつ受けないで助かっている。
死ぬはずはない。死んでなるものか。生きるんだ。生き抜くのだ。
母の信仰の力に支えられながら私も一心に祈りました。
その時のお医者さんは、水道町の原先生という方ですが、親身になってやってくれました。
敗血症の時など真剣な顔で、長いこと私の枕元につきっきりでいてくれました。本当に命の恩人だと思っております。
1年余りの闘病生活の間に、私は神に祈る心を知り得たと思っています。本当の宗教心を教えてもらったと思っております。
暫く療養生活が続くわけですが、その頃にはラジオ放送の事が毎日のように新聞紙上を賑わしていました。
私は、もともと機械いじりが好きでしたから、だいぶ前から古道具屋などへ行って、船舶用の無線機の部品から電線などを買い込んできては、手づくりで鉱石ラジオを組み立てていました。
しかしながら、まだ放送は始まっていませんでしたので、トンツートンツーの音を聴いては喜んでいたわけです。
記録を見ますと、大正13年(1924)東京放送局が設立され、翌年の3月22日に試験放送。7月に愛宕山かJOAKのコールサインで本放送が始まっています。
JOBKの大阪放送局が開局したのは大正14年(1925)3月のことです。
すでに鉱石ラジオから真空管ラジオへと移行しておりましたが、私は矢も盾もたまらなくなって、本を見ては部品を買い込み、独学で鉱石ラジオから始めました。そのうち、三極真空管を手に入れ、レシーバーをドンブリばちの中に逆さに入れて、音を拡大して聴いていました。
ある時は大倉山にある図書館に足を運び、辞書と首っぴきで勉強したものです。
それが病みつきになって、いまのような道にはいってしまったんですね。逆鏡の恩寵というものでしょうか。
20歳になると、徴兵検査というものがあります。私も受けました。
ところが、まだ、その頃は病み上がりで、ひょろひょろしていましたので、丙種にまわされてしまいました。
もっとも、この頃は軍縮の時代ですから、そう兵隊が必要でもなかったのです。
ある日のことでした。
新聞広告に高木商会という会社が無線技師の募集をしていたんです。
たまたま、私はそれを見て受験しました。
すると、ものの見事に合格。早速、無線技師という肩書きで採用になったんです。
当時、無線技師が少なかったのかも知れませんが、あの時は自分でもびっくりしました。