回顧と前進
第4話 丁稚奉公から
北尾商会をやめて上京 ~ 私の好きな道“物を造る” ~
私が北尾商会に入社していた頃、日本にも、ジャズが流行しつつありました。
北尾商会でも、ジャズ楽器の、サキソフォーンや、トロンボーン、ドラムなど、新しい型のものを輸入していました。
とくに、アメリカ製のギブソンのマンドリンや、ギターなどは最高級にモダンなものでした。
当時は、ダンスホールなどというのは、まだ無かったようですが、ソシアルダンスは有志が集まっていろんな所で舞踏会をやっていました。
そのダンス用のジャズバンドを編成して、出張演奏するのも、事業の一つだったわけです。
北尾商会の従業員やお得意様が集まって誕生したバンド。
筆者は中央の学生服姿、マンドリンを持っている
そのかたわら、楽器の商売で、神戸は勿論、大阪の映画館や宝塚の少女歌劇団などへ売り込みに行っておりました。
私は、かわいい少女歌劇団の女優さんたちを見ながら、若い胸をときめかしたものでした。
ちょうどその頃、覚えている人もおられるかもしれませんが、宝塚大劇場が火災で全焼したのです。
この時、主人ら社員3~4人で火事見舞に行きました。
なんと、こもかぶりの四斗樽を持ち込み、かがみを抜いて焼跡の後始末をしている人達にふるまい酒をしたのです。
まったく、お見舞いなのかお祝いなのか、わけがわからないありさまでした。
そのためかどうか、その後、楽器の注文が相当ありました。
今になってみれば、なつかしい思い出の一つです。
ところで、この社長さんは、やり手に見えて、やはり、お坊ちゃん育ちだったのでしょうね。
事業はエスカレートしていくのですが、健全経営とはいえなかったようです。
外見は華やかに見えて、ほんとうは苦しかったのでしょう。
大変、書きにくいことですが、社長が、或る女性と急に、行方不明になってしまったのです。
経営が、よほど苦しかったからでもありましょうが、私は、このことが、とてもいやでした。
社長がいなくなる前にも、私の直ぐの上司が、女店員と雲がくれしているのです。
経営者がいなくなった会社が成り立っていくはずがありませんし、社長や上司が女性と雲がくれしてしまう会社なんて私には理解できません。
そこで、父にも相談せず会社をやめ、早速東京の伯父を頼りに、無断で家を出てしまいました。
かねてから自分の好きな道は、ものを造ることだ、と思っていましたので、この際、たとえ、どんなに小さなことであっても、自分で楽器の製造をやってみたいと思ったのです。
東京の伯父の家に行き、居候の生活を2週間ほど続けている時、私のことを心配して、父がやって来ました。
しかし、私の強い決心をきいてあっさり許してくれました。
父は、こういう、竹を割ったような人だったのです。
そして、大正12年(1923)4月、私が18歳の時、横浜の東神奈川駅前にあった「西川楽器」という楽器会社に入りました。
ピアノとオルガンを造る会社でしたが、私は調律も兼ねて、楽器の製法を学ぶことになりました。
徒弟ですから、給料は小遣い程度です。
下宿料は父から仕送りしてもらい、とにかく頑張りました。
ところが、やっと少し馴れたと思ったころ、例の関東大震災が襲ったのです。
大正12年(1922)9月1日、午前11時58分。全く突発的に起きたのです。
ちょうど、昼食の時間で、ラーメン屋の出前が来て、机の上に並べた瞬間、それこそ、百雷が一時に落ちたような騒音が耳をつんざいたのです。
工場に並べてあったピアノや、オルガンが次々に倒れ、棚の上の部分が、バラバラッと落ちてくる。
私は思わず作業台の下に、もぐりこみました。
その時、メリメリッという不気味な音と共に、工場は見る見るうちに「くの字」型に曲ってしまいました。
私は、思わず”神様“と口ばしりました。
どうしようもない、せっぱつまった時というのは、やはり幼少からの信心が自然に口に出てしまうのでしょう。
この時の衝撃というか驚きのさまは、脳裏に焼きつき、決して忘れることができません。