回顧と前進
第4話 丁稚奉公から
文房具店に丁稚奉公 ~ 淋しさを乗越え新しい職場へ ~
思い切って関西学院を中学1年で中退した私は、父が探してきた、神戸の元町通り2丁目にある「サワタニ文房具店」に丁稚奉公することになりました。
大正8年(1919)、私が14歳の春です。
今まで、金ボタンの制服をつけ、三日月のピカピカの記章をつけた学帽をかぶっていたのが、急に、縞のあつしに、帯をしめ、鳥打帽子をかぶる身になったのです。
淋しくなかったといえばうそになります。
しかし、自分から進んで選んだこの道です。淋しく思ってはいけなかったのです。
それよりも、1日も早く、新しい職場に馴れようと努力しました。
サワタニには、同じ年ごろの少年が四人いました。
先輩格は安富といい、中山、藤木、東という名前でした。
私が中学1年で中退してきたというので、はじめから可愛がってくれました。
サワタニ文房具時代
私は目が大きく、くるくるしているので、松本という姓とくっつけて「目玉の松ちゃん」という綽名(あだな)をつけられました。
そのころ、時代劇に尾上 松之助という俳優がいて、義眼の片目を大きく見開き、呪文を切る仕草が、とても人気があり、みんなに目玉の松ちゃんと愛称されていました。
ここで私は一生懸命、働きました。
そのため、主人にも奥さんにもお気に入りになりました。
小学1年生の息子、周一君も、 「松ちゃん、松ちゃん」 と呼んで慕ってくれました。
この店に、丸顔の太った女中さんがいました。この人も、私を何かと可愛がってくれました。
朝の食事は、いつも冷たい御飯のお茶漬けで、沢庵(たくあん)が三切れか、四切れついている程度でした。
封建色の強い時代で、主従は食べ物まで厳然と区別されているのです。
沢山食べるからというので、御飯を、わざと冷たくして食べさせていたくらいですから、他は推して知るべしです。
それでも昼は、おかずに、菜っ葉と、厚あげを煮つけたのが出ました。夜は一菜はついていましたが、お魚などは週一ぺんぐらいのものでした。
しかし、育ち盛り、食べ盛りの若者には、いつも食事が不足で、買い食いをしなければ、とても足りません。
ところが、その女中さんは、私だけには、昼の厚あげを、一つか二つ、必ず余計に皿に盛ってくれるんですね。
仲間の手前、きまりも悪かったのですが、背に腹は代えられません。知らんふりをしながら、食べていたのです。
仕事はいろいろありました。店売りをしたり、自転車での配達や、御用聞きも私の日課の一つでした。
そのほか、この店は印刷や、製本まで引き受けていましたので、下請けの印刷屋へ連絡に行くと、時には、文章を考えてくれなどと、頼まれることもありました。
そのうち、紙の厚さも、手にさわると直ぐ、これは何紙の、何斤だというのが分かるようになりました。
印刷の専門知識も、文字通り門前の小僧で、一通り身につけることが出来るようになったのです。
東京にきてから「福音印刷」をはじめる時、その気になったのも、その当時の思い出があったからだと思います。
毎日ではなかったのですが、残業もありました。大体、10時頃まででした。
和紙を20枚ずつ、ノリで継いで巻紙に仕上げる仕事なのです。
仕事が終わると、店を閉めてから1日おきに、主人から風呂札をもらって、銭湯にいくのです。
今でいう、回数券ですね。
帰りがけ、うどん屋で、うどんを食べることに決まっていました。
一杯5銭でした。
この銭湯と、うどんの夜食が、そのころの私の、何よりの楽しみだったのです。
勤めていた文房具店の屋号は“えびら”といっていました。
源平の生田の森の合戦の時、源氏の勇将、梶原 景時が、“箙”(えびら)に梅の枝を挿(さ)して、敵陣に突っ込んだという故事によって主人がつけたのだそうです。
修羅(しゅら)の中でも、風雅の心を忘れまいとする武将の心を屋号にした主人を偉いと思います。