回顧と前進
第9話 終戦直後の業界
株式会社に改組 ~ 品質向上への技術陣の強化に全力 ~
昭和21年(1946)になると、都内の卸屋さんの復興ぶりにも目ざましいものがありました。同年3月には、広瀬無線さんがいち早く元の仲町にお店を再興、ここにおられた角田 照永さんも独立して角田無線を興しました。当時よく自転車で私のところへもスピーカーを買いにみえたこともあります。
品川の小川 忠作さん(小川無線)も仮店舗で商売を始めておりました。
大阪の日本橋街の復興は、少し後になってからだったと思いますが、人手不足などもあって、私はとても大阪まで直接手をのばすことはできなかったのです。
それでも大阪はもちろん、北は北海道から南は九州、四国方面からも、東京の私のところへダイナミックスピーカーを買いに来られるお客様があとを断ちませんでした。
昭和23年に商標登録されたマーク
戦後しばらくは、資材難もあって、鳴りさえすれば売れていたダイナミックスピーカーにも、おいおい品質の向上が求められる時代になってきました。
そこで、昭和22年、あらかじめ土地を手当てしていた音羽7丁目に、第二工場を建設することにしたのです。150坪の土地に、古材などで6間に14間の平屋建ての工場を完成させました。その前の方には、二階建の事務所兼住居を20坪ほどの規模で建てました。なにしろ古材の寄せ集めですから、寸足らずで天井も少し低いのですが、ともかくも自分の土地に自分の工場を建てたのはこれが最初です。
この年の5月、有限会社を株式会社に改め、資本金も19万5千円に増資しました。
いまからみると、ちっぽけな金額のようですが、当時は、新規に設立する株式会社の資本金は20万円以下に抑えられていたのです。
第一工場を建てた時、本社のある音羽6丁目の工場は、1階を商品倉庫と出荷部に当て、2階には新しく技術部を設けました。
商品といっても、その頃つくっていたスピーカーは、私が志を抱いて大阪の福音商会時代に初めて手がけた、ダイナミックスピーカー「A-8」には及びもつかないお粗末な代物でした。
考えてみますと、約10年間というものは、戦争のために性能のいい新しい考えに基づいたスピーカーの開発は中断されていたわけです。
そこで私は、第一工場の完成を機に本来の開拓者としての“パイオニア”に戻り、誰にもひけをとらない良いスピーカーの開発に全力をあげる誓いを新たにしたのです。
それには、まず何をさておいても、過去10年間も誇りをもって使ってきた「パイオニア」という商標を登録しておかなければと思いたち、早速調査してみました。
ところが、驚いたことにすでによそのメーカーが登録しているではありませんか。
これは大変な失態でした。その人は大阪の喜積 英一さんという方で、スイッチ類を手がけているメーカーでした。早速、ブランドの譲渡方をお願いすべく大阪へお伺いしました。社長の喜積さんは幸運にもクリスチャンで、私の方も福音電機というわけですから、話が善意の上に立ってスムーズに進められました。その結果さいわいなことに、
「いまはパイオニアのブランドは使っていない」とのことです。私が事情を話し是非ブランドを譲ってほしい、と礼をつくしてお願いしますと、快く10万円で承知してくれました。
こんなにほっとしたことはありませんでしたから、その日のことは今でもはっきり覚えています。昭和23年10月7日のことです。
このとき同時に、オームと音叉を組み合わせたマークも登録しました。
これも私の創案でしたが、音の基準に使う音叉と電気を表わすオームの型を組み合わせてみましたところ、マークらしくなりましたので、その後専門家にデザインしてもらい今日のマークになったのです。
それにつけても、つくづく私は運がいいと思わずにはいられません。
10年前の大阪時代、商標を「パイオニア」と決めた時に、もし念のため登録の有無を調べていたら
「なんだ、もう他人様が使っているじゃないか」とあっさり諦めて、多分別の商標にしていたことでしょう。
まったくどこで何がどうさいわいするかわからないものですね。
ところで、終戦後2年余り経ちますと、スピーカーの同業者もだいぶ増えてきました。
戦前からのニッサン、ウインストン、スター、アシダボックスなどは割に早い方でしたが、戦後新しく始めたシルバーボックス、それにフリーエッジで有名なハークなども出てきたのです。
関西メーカーのセンター、ワルツは少し遅れましたが、大阪音響(現オンキョー)という会社がスピーカーを新たにつくり始めた、というニュースが東京にも伝わってきました。
そこで、私も品質の向上と商品の開発を急ぐ意味からも技術陣の充実に全力をあげることにしたのです。中島 友孝君という大学出のエンジニアを入社させたり、土屋 一夫君も確かこの頃入社しています。
この頃には、梅原 洋一君の福洋コーン紙も本格的に稼動していましたから、新しい設計によるスピーカーをつくりはじめました。
同時に、営業部門も強化するため、それまで工場で働いていた永井 清君を販売の第一線に回しました。
さきに採用した上田 栄太郎君とはいいコンビでした。