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回顧と前進

第9話 終戦直後の業界

『松本望著「回顧と前進」』

GHQコムス氏の手腕 ~ 品質向上へ「最低性能試験」 ~

しかしながら、インフレの昂進速度は衰えず、ラジオの公定価格が上がってもギャップはなかなか埋まりませんでした。

また、電力事情の慢性的な悪化などもあって、ラジオの生産は引き続き伸び悩んでいたのです。

そのうち、旧財閥系の大手メーカーでは、業界の建て直しを図るという名目から日本通信機械工業会(略称:日通工)を設立しました。

GHQ(マッカーサー総司令部)の指令による“ラジオ生産計画”遂行の業界最高機関として、君臨しようという発想だったようです。

会長に東芝の津守 豊治社長、専務理事に日本電気の高安 清見氏がおさまるなど、重要なポストは、すべて重電・通信機系の大会社で占めてしまったのです。そこで、これに対抗して、ラジオ受信機の製造を主な仕事にしている松下、早川(シャープ)などの関西メーカーを中心に、別個に日本ラジオ工業会をつくろうではないか、という動きがでてきました。しかし、日通工の中にラジオ部会を設けるから仲良くやろうという日通工側の説得もあって、結局、この動きは封じ込められる形になってしまいました。


福音商会電機製作所(大阪)の設立に関わった社外の支援者と思われる(詳細不明)

ところで、先に述べた部品業者の集まりである日本ラジオ工業組合も、資材配給の要求が満たされないまま一向に運動効果は上がらなかったのです。

その後、この組合もGHQの勧めで日通工に合流することになったのですが、その際の条件として、われわれ中小の部品業者にも一会員一票の議決権を行使できるよう認めさせました。

この時から、資材面でも、部品メーカー単独で配給が受けられるようになったのです。

さて、資材が配給制なら製品のラジオも配給制をとらなければ理屈にあいません。

そこで、昭和17年(1942)につくられていたラジオ配給制度が、戦後もそのまま日本ラジオ受信機配給株式会社(略称:ラ配)によって運営されていました。

ところで、このラ配が例の“球なしラジオ”の在庫過剰などで運転資金が不足し、機能が完全にマヒしてしまったのです。

そんなことから、統制撤廃→自由販売への過渡的なシステムとして、ラ配経由とメーカー直販によるものとの二本建ての販売制度がとられるようになりました。この新しいシステムに対応して、ラ配の名称も、21年11月の臨時総会で「日本協同ラジオ株式会社」と改称されました。

経済の民主化、自由化の波はこのような形で急速にラジオ業界にも浸透していったのです。

そして、昭和22年4月には、その決定打ともいえる、いわゆる独禁法が制定されました。

もはや、統制団体や配給会社が存続する意味がなくなったのです。この結果、昭和22年11月、GHQによって電機機械統制会、ラジオ受信機製造統制組合、日本協同ラジオ株式会社(旧ラ配)、それに日通工などに対し解散命令が出されました。

ついで翌23年10月には、ラジオ受信機に対する、例の公定価格も廃止されていくのです。

しかし、統制事業や価格協定業務はなくなったとはいえ、主要資材は依然として割当制でしたし、また物品税などの政治問題も表面化しつつありましたから、業界の各分野を挙げての強力な統一機構の必要性が、日通工などの閉鎖団体に代わって、強く求められていました。

そこで、昭和23年4月、日通工の業務をなかば引き継ぐ形で、無線、有線、電線の三機械工業会が相次いで設立され、同時に、この三団体によって日本電気通信機械連合会(略称:日通連)が結成されたのです。

いずれにせよ、このような公定価格の廃止、統制団体の閉鎖、生産資材の割当てなどは、いずれもGHQの指令によるもので、商工省は単にその実施機関にすぎませんでした。

そのGHQの民間通信局(CCS)で責任者をしていたのが、ギャレット・ディ・コムス氏という佐官相当の司政官でした。

戦後、わが国のラジオ産業の復興に、いろいろな意味で大きな役割を果たした、いわば恩人ともいえる人です。その一つの業績にこんなことがありました。

公定価格の廃止で、一応市場が自由競争になってからの話ですが、コムス氏は、資材配給を受けたいメーカーに対して“最低性能試験”を課すという厳しい態度に出たのです。

つまり外国品に劣らない品質の良いラジオをつくることを義務づけたわけで、これは当時の情勢下では英断ともいえる措置でした。もっと具体的にいうと、国民型や再生式はやめて、スーパーヘテロダイン方式のダイナミック型をつくれ、と指導していたわけなのです。このことは、いま考えてみてもわが国のラジオ業界の発展にとって、大変プラスになった措置だったと私も思っています。

こんな事情もあって、ラジオはいよいよダイナミック時代に入っていくのですが、昭和24年(1949)3月、産業界を真っ二つに割った珪素鋼板をめぐる割当て問題の時にも、コムス氏の手腕がいかんなく発揮されました。

この年、ラジオ部門に150トンほど余分に珪素鋼板が割当てられたのですが、重電関係者の不平不満は大変なもので、ラジオ用よりも一般電力用の柱上変圧器の方に回すべきだというわけで、新聞もこれを支持して大いに書きたてたものです。しかし、ラジオを重視するGHQ民間通信局のコムス氏のひと声で、計画通り割当てが認められました。

このコムス氏を語る上で、当時の商工省電気通信機械局無線課で、われわれ業界とコムス氏との間に入って、いろいろと努力していただいた日和佐 忠行課長も忘れられない人となっています。

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