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回顧と前進

第7話 燃える独立心-2

『松本望著「回顧と前進」』

社員一期生入社 ~ 物を作るのが「三度の飯より好き」という青年 ~

仕事が大変に忙しくなりましたので、店頭に“社員募集“の貼り紙を出したところ、信濃の男で柳沢という青年が一人応募してきました。

また、ちょうどその頃、田地 源吾君という上野駅前にあった島商会の店員さんが、以前から店の修理品を持ってくる度に、暫らくは私の仕事を見ていくんです。

そして、自分は商売を覚えるよりも私のやっているような仕事をしたい、と言うのです。

そこで、早速、島さんの了解を得て、私のところへ来てもらうことにしました。

彼は私と同じで、ものを作ることが“三度の飯“よりも好きという人物で、それになかなか器用でした。

“類は類をよぶ“という諺がありますが、まさにその通りで、その後続いて、2、3人の若者が来てくれ、仕事は順調に進展していきました。


仕事仲間と思われるメンバーと。
左から2人目(撮影時期など詳細は不明)

そのうち、
「ピックアップの修理はできないかね」
という注文が持ち込まれました。
「はい、致しましょう」
と、気軽に引き受けてしまいますと、今度は、
「マイクロホンは直らないかね」
「なんとかやってみましょう」
というようなわけで、欲と道づれで、なんでも引き受ける羽目になってしまいました。

なかには、とても難しいものもありましたが、何とかモノにしてしまう器用さが、私にあったようです。

たとえば前にもちょっとお話したかと思いますが、スピーカーの修理では、こんな芸当もやってのけました。

スピーカーのコーン紙の場合、種類は、大変に多いわけですが、それでも規格品としての口径は、6、8、10、12インチと4種類くらいでした。

ところが、紙質や角度がそれぞれ違うわけですから、完全に元通りにならないものも、時にはありました。

そんなわけで、マグナボックスのスピーカーに、ワルツのコーン紙をつけ代えたり、ヴィーナスの8インチに、ライトのコーン紙を張りつけたり、といった細工をこらしたものも、たまには出てくるわけです。

ところで、私は当時修理用部品を集めるため、たびたび大阪に出向いていました。

その折、たまには神戸、京都へも立ち寄り、両方の父母達へ近況報告などもしておりました。

神戸のヴィーナスカンパニーは私が辞めた後も、何とかやっていたようですが、日華事変が始まった昭和12年(1937)に、福音商会と同じような理由で会社を整理してしまったようです。

出資者の玉田さんが先行きを不安がられて、手を引かれたからだということを、私がヴィーナスに紹介して入社させた内田君から聞きました。

その内田君は技術者でしたから、すぐ小西製作所という、電気炉のメーカーへ転職しました。

内田君がヴィーナスカンパニーに連れてきていた、もう一人の優秀な技術者・佐々木君は、京都の日活に入り、トーキーの技術者として今もそのほうの権威です。

一方、福音商会のほうは、まだ完全に残務整理ができずにいたようです。

この福音商会に、私が連れてきた若い技術者がいたのです。

子供の時から電気いじりが好きで小学校時代には、天才児といわれ新聞にも載ったほどでした。

父親がいないため、上の学校へ行けずに、ラジオ店の店員さんをしていたのです。

それを、私が福音商会時代に引き抜いてきたもので、小林 卓二君という青年です。

小林君は、福音商会の整理がつきしだい上京してくる手はずになっていました。

その年の秋、大阪へ行った時です。

ヴィーナス当時、ダイナミックのフレームをはじめ、ピックアップのアームなどを作らせていた南区の高木鉄工所へ立ち寄ってみました。

すると、工場の片隅にヴィーナスの、例のコブラ型ピックのアームがたくさん積んであるではありませんか。
「どうしたんや」
と聞くと、
「誰も引きとってくれへんので、クズ屋行きにするしかしようないんや」
ということです。

私は考えました。

もし、他の部品類が手に入ればピックアップの新品を組立てることができるかも知れない。そこで早速、主人に、 「もし、なんやったら、私がひきとってもええで。しばらく待ってくれへんか」 と頼み込み、急いで他の部品類を当ってみることにしました。

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