回顧と前進
第7話 燃える独立心-2
夢打ち砕かれて単身上京 ~ スピーカーは売れなくなる……と ~
商品も完成し売りのメドもついて、さあこれからだ、という時でした。
昭和12年(1937)7月、盧溝橋における銃声一発で日華事変が勃発しました。
やがて、金融、物価などの面で一段と経済統制が強化されはじめたのです。
そんなある日、資金の提供を受けているスポンサーの福音商会から、スピーカーのようなぜいたくなものは、やがて売れなくなるに違いないから仕事を中止してほしい、と言ってきたのです。
“青天の霹靂”とは、まさにこのことでしょうか。私は強いショックを受けました。
三浦氏(後列右から3人目)と夫人(前列左から2人目)
妹尾氏(前列右から2人目)と夫人(前列左から3人目)
後列右端が松本 望(昭和13年撮影)
西村君ともいろいろ相談したのですが、肝心の運転資金を止められてはどうにも動きがとれません。
西村君も、先行きに不安を感じてか「大損する前にやめよう」というのです。
しかし、私はそう簡単には引き下がれませんでした。
その月の東京出張の折、都南ラジオ組合の三浦さんに事の次第を打ち明けますと、とても同情されて、
「東京に来てやってみないか。自分には力はないが、近く大崎の巴製作所の支配人として転職することになっている。そこの妹尾という社長さんを紹介するから、頼んでみたらどうか」
というのです。
渡りに船と、三浦さんともども伺いましたら、妹尾さんも、
「なんとかなるだろう。いつでもきなさい」
と親切に言ってくれました。
ところが、東京へ行って出直そうにも、先立つものがありませんでした。
家族7人が、2~3か月は生活できる程度の貯えはありましたが、事業資金まではとても手が回りません。
そうかといって、親類縁者に資金の援助を頼みにいくという考えは毛頭ありませんでした。これも負けず嫌いというか、プライドが高いというのか、私の性分なんですね。
そこで思いついたことは、当時、東京の卸屋さんではスピーカーの不良品が出ると、全部大阪へ送って直していたことです。
また、輸入品の修理などをする人もどこにもいませんでした。
よし、修理屋ならそんなに資金もいらないことだし、東京の人にもきっと喜ばれるに違いないと思ったのです。
ここでも、生来のなんとかなるだろう、という楽天的な考えが頭をもたげてきたんですね。
このように、ドンキホーテのような無謀な勇気がある反面では、家族を抱えて苦労した3~4年前の浪人生活が思い出されて、実のところ不安でした。
しかし、腹を決め東京へ行くことにしたんです。
大阪の店じまいのことは、西村君にやってもらうことにして、私はとにかく一からやり直してみることに決心しました。
昭和12年10月、妹尾さんを頼りに単身、上京しました。
大崎4丁目の巴製作所は、いまの環状6号線の三叉路の入口のところにあり、小ぎれいな工場でした。
その向い側の少し先の目蒲線のガード脇に、妹尾さんの持家で、魚屋、八百屋、荒物屋などが雑居している小さなマーケットがありました。
その二階の一部屋が空いているというので、とりあえずそこに寝泊りすることにしたのです。
大きな20畳もある部屋でしたが、畳は6畳分しか入っていませんでした。
私が大阪から持ってきたものは、身の廻りのもの少々と寝具、それにラジオの修理道具として、手回しの巻き線機とテスター1個だけでした。
妹尾さんという方は、元は役所に勤めていたんだそうですが、自ら巴製作所を興して、紙蓄電器を製造、販売しておられたのです。
商売人タイプではありませんでしたが、ご夫妻とも品のよい立派な方でした。
落ち着く部屋も決まって、仕事の相談に行きますと、
「工場の一室が空いているから、そこを使ったらいいでしょう。電話も使いなさい。家賃は儲かるようになってから決めましょう」
と言ってくれました。
地獄に仏をみたとは、こんな時のことをいうのでしょうか。
仕事場も決まり、さて明日から店開きだ、という段取りになって、問屋さんに渡す名刺がないことに気がつきました。
いくら修理屋とはいっても、一個の企業です。
名刺をつくるには、社名をつけなければなりません。
私は、何の躊躇もなく、大阪時代そのままの福音商会電機製作所とつけました。
これには、いろいろと理由があるのです。