回顧と前進
第7話 燃える独立心-1
福音商会電機製作所を設立 ~ まずダイナミック・スピーカーと取り組む ~
福音商会との話を千代に告げました。せっかく幸福な生活を取り戻したと思っている妻は、私の計画にきっと反対するに違いない、そう思っていました。
しかし、千代は何も言わず、私の考えに賛成してくれたのです。
私が会社をやめたいと申し出たら、役員にするから残ってほしい、という話も出ました。
しかし、私の決心は変わりませんでした。
事は万事順調に進んだものの、私には心配なことがありました。
それは、私が辞めた後のヴィーナスのことです。
いまになって考えれば、随分おこがましいことをいったものですが、会社のことは井上 専務が陣頭に立って切り回すこと、二人のセールスがもっと頑張ること、内田君を役員にすることなどを進言して、お暇をもらうことにしました。
ヴィーナスにしてみれば、商売敵が一つ増えることになるわけですから、内心は「松本、お前もか・・」の心境であったことでしょう。
昭和26年頃の松本夫妻
当時の社会・経済情勢は、とても独立して事業を始めるような状況ではありませんでした。
2.26事件の後、日本経済はインフレ傾向に入っていました。
ドイツでは、ヒットラー政権によるファシズムがうず巻き、国際情勢はまさに騒然たるものがあったのです。
こんな情勢ではありましたが、昭和11年11月5日は、私にとって思い出深い日となりました。
西村君の所属している教会の事業部である福音商会と提携して、この日、福音商会電機製作所が設立されたのです。
私は、技術面とセールスを主に受け持ちました。
西村君は会計が中心です。
工場は、大阪の大正区三軒屋町にあった福音商会の持家です。
工場というより、空家となっていた土蔵と平家のくっついたような建物を利用したにすぎません。
仕事の関係で私達一家は、またまた、六甲を引き払って大阪の十三(じゅうそう)に移りました。
ここは、いまは淀川区で新幹線の新大阪駅も近く、にぎやかな所になっていますが、当時は、新淀川のいわゆる川向うで、兵庫県にほど近い淋しいところでした。
スタートした時は、私と西村君の二人だけでしたが、半年もすると工員も7人くらいになりました。
みんな若い人ばかりで、スピーカーの知識を持っている者はほとんどいませんでした。
ましてや、私が作ろうとしているダイナミック・スピーカーが、どれだけの値うちがあるものか、誰も知っているはずはありません。
それら素人の工員さんを相手に、それこそ「いろは」の、いの字から教える始末でした。
私は、かつて船場で聴いたフィルコ製電蓄のダイナミックで素晴らしい音を忘れてはいませんでした。
どうせ作るなら、ああいう音を出すスピーカーを作ろう、と思い続けていたのです。
それまでの国産ダイナミック・スピーカーでは、私が聴いたフィルコ製電蓄に比べて、どうしても高音が足りない感じなのです。
何とかして、高音が伸びるようにと苦心しました。
毎日、毎晩、ああでもない、こうでもないといろいろ実験を重ねているうちに、とうとう一つの構想が浮かんだんです。
当時のダイナミックの理論としては、コーン紙の角度は深いほど能率がいいのですが、低音が出にくいのです。
そこで、低音を出すために浅くするのですが、浅いと歪が出るので、固い材質を使うことになります。
しかし、固くすると重くなります。それに能率も悪くなりますので、中心部だけラッカーなどで固めたり、形状や材質などにはいろいろと研究がなされておりました。
私の発想は、コーン紙の中央に金属を使ってみよう、という考えだったのです。
その頃、硬くて軽い飛行機用の材料として開発された、新しい金属のジュラルミンに目をつけたのです。
その薄い板、それも0.3ミリに近い薄物ですが、これを盃(さかずき)のようにしぼるのです。
しかし、なかなかうまくできません。一度には深くなりませんので、2回、3回と少しずつなましなまし絞るのです。
それでも皺がでてきて、なかなかものになりません。
半ばあきらめかけていた時、
「できた、できた、これでどうですか」
と下請の方が持ってきてくれました。
これを中心部として、周囲はエッジを薄くした継ぎ目なしのコーン紙をつなぎ合わせるという手のこんだものです。
まずは、私の発想通りに出来上がったのです。これは世界でも初めての試みでした。