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回顧と前進

第5話 千代との結婚

『松本望著「回顧と前進」』

ラジオ組み立てコンクールに一等賞 ~ 高木商会にも不景気の波 ~

年若くして店は持つし、日銭は入るし、高木商会でも重く用いられているし、何だか、急に偉くなったような錯覚を持ったのでしょうね。

休みには、のんきに遊び回っていました。

当時は、ラジオ受信機も電池式からエルミネーターに変わっていました。その頃のラジオ屋といえば、部品を買ってきて組み立てて売った方が利益が出るので、どこでもラジオの組み立てをやっていました。

私も夜はラジオの組み立てをしたものです。

当時、ラジオ画報社(ラジオ公論社を経て、日本電気公論社)という会社がありました。戸川 次郎氏の編集で、山田 裕一さんの主宰する、当時としては大阪唯一の業界出版社でした。

その会社が主催して「ラジオ組み立てコンクール」というのが催されたのです。

一定の決められた部品で、いかに美しく、立派に短時間に組み立てるか、という競争でした。

私も、その組み立てコンクールに参加して、一等賞をもらったことがあります。


苦しい時代ではあったが、案外のんきにビリヤードをやっていた。かけているメガネはダテである

一方、世の中は、物情騒然としつつありました。

長男の誠也が生まれた年の10月、ニューヨークのウォール街の株式市場が一挙に大暴落をし、日本もその影響を受け、昭和5年(1930)には、日本での失業者は250万人にも達しています。

恐慌の嵐は、私たちの店にもおし寄せてきました。

そいいう年の6月12日、次男の冠也が生まれました。

兄に似て丸々と太っていました。

この二人の男の子の寝顔を見くらべながら私は、この子どもたちのためにも、がんばらなくっちゃと思いました。

しかし、明けて昭和6年(1931)3月には、重要産業統制法公布、6月は中村大尉事件、7月1日には万宝山事件が起こるというふうに、世の中も騒然としてきたし、業界自体も不景気で、非常に苦しい状態がつづきました。

店を持って3年経ちました。

そのころ、高木商会でも悪戦苦闘の真っ最中でした。

それにもかかわらず、私は案外のんきで、ビリヤード通いをしたり、日曜日には家族を連れて、どこかへ出掛けるなど、多少ぜいたくをやっていました。

当時、私の店では、小売りと多少の卸も兼ねていましたので、売掛金がたまり、回収不能もあって、経営が悪化していくのが目に見えて分かるようになってきました。

当然のこと問屋の販売競争も熾烈で、景品売り出しや招待など、売り出しをかけないと、ものがはけない状況でした。

業者の数も多くなっていましたし、技術の進歩も著しいので、商品の価格変動は激しいものがありました。先月買った値段と今日買った値段が違ってくるので、商品管理が大変なのです。

また、私がいない時に、とかく噂のある小売屋さんが買いにきて、危ない先とは知らずに売ってしまったりして、売掛金がたまってしまうのです。

大口の倒産にひっかかったCL商会を思い出します。店は堺筋の目抜きで、ウインドづくりもレイアウトも非常に派手な店でした。私の店でも売り込みに行っていました。

その店にはいつも芸術家気取りの変わった風体の人達がたむろしていました。テーブルに飲みかけのコーヒーカップがおいてあり、店内は煙草の煙でもうもうとしていました。

あんまり店が派手なので心配していましたら、ある日突然閉店してしまい、売掛金がこげついてしまったのです。

住吉の自宅まで集金に行ったのですが、応対に出てきた店主の父親は「息子の借金など払うわけにはいかない」ととりあってくれません。

結局そのままになってしまいました。

このようなことは、特別なことでもないほど不景気な時代でした。

このままでは、どうしようもない。希望堂に専念すべきか、それとも店をやめて勤め一本でいくべきか、真剣に思案せざるを得ない状況でした。

不況は次第に、高木商会へも押し寄せていたのです。

大阪支店は閉じてしまい、私は神戸本店勤務になっていました。

京都支店も閉じることになりましたが、支店長をしていた池田さんは、その時独立して池田商店を開業しました。

また、東京の支店は日本橋3丁目のよい所にあったのですが、私たちが知らない間に無くなっておりました。

私は迷いました。妻とも毎晩相談しました。

義父への義理や面子もあって店を閉じたくもないし、といって、支店まで閉じてしまった高木商会を捨てるわけにもいかない。

その時、一つの事が起こりました。

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