回顧と前進
第5話 千代との結婚
私も大阪支店へ ~ 22歳の私の心に青春の血潮 ~
千代は女学生らしく、ういういしい丸顔に、理知的な目が輝き、いかにも聡明そうに見えました。
いつも口もとに笑みをただよわせながら、若鮎のように、ピチピチ働いていました。
挨拶をすると、いかにも無造作に、ぴょこんと、おじぎをして、すぐ店の奥に消えていきました。
入れ代わりに若い店員がやってきて、型通りの取り引きが交わされましたが、私の心は妙に、さっきの少女に移っているのです。
私も牧師の家庭に育ったとはいえ、やはり人の子であります。しかも22歳です。青春の血潮の燃えないはずはありません。
私は粘液質で、刺激に対して、そう無闇に反応するほうではないのですが、この時の不思議な感情は生まれてはじめての経験でした。
そのうち、谷山商店とも仕事のことばかりでなく、親しさを増していきました。
どうしたものか、私はこの家族みんなに可愛がられたのです。
わけても父親のほうは、えらく信用してくれたようで、
「あの松本という男は、なかなか立派なもんやな。今どき珍しいお人や。あれとなら、つきあってもええな」
と千代に言ったといいます。
将来は千代の婿になってもらって、谷山商店を継がせたい、という魂胆があったらしいのです。
しばらくして父は、大阪に支店を出し、祖父と祖母、弟の十四男(としお)と店員一人を、千代を支店長格として一緒に行かせたのです。
東区、平野町5丁目、御霊神社前です。
二人は、しばらくは逢えませんでしたが、かえって、そのために文通ができ、さらに燃えていきました。
ところが、それから幾らも経たない昭和2年(1927)4月、私も高木商会の大阪支店に転勤になったのです。
そこがなんと、東区、淡路町2丁目。三越のすじ向いで、千代の店のある平野町5丁目とは、歩いて5分とかからない処なのです。
どうして、こうなったか。
神さまの、いたずらでしょうか。
こういうことになってから、二人の間は急に親密の度を加えていきました。
高木商会の大阪支店は、二階建ての立派な家でした。
ここは借家でしたが、高木商会も、かなり羽振りをきかせていたといえましょう。
私はここに寝泊りしていました。
そして毎日のように千代の店に行っていました。
祖父も、祖母も、私を信用してくれていましたので、どこに行くのでも千代が、
「松本さんと行く」
といえば、すぐ許してくれたということです。
谷山商店の真向いに交番があり、そこのお巡りさんが、千代によく映画館の招待券をくれたので、御霊クラブという映画館にはよく二人で出掛けました。
千代の店の前にある御霊神社は有名で、ここの御霊筋は、大阪の中でも文化の開けたところでした。
いろんな店が並んでいる細い通りがあり、その一番奥に、有名な文楽座がありました。
昭和3年に火災で焼けましたが、千代の店のすぐ近くだったので、夜中の2時頃でしたが、あわてて飛んで行きました。
文楽座はその後しばらく再建しませんでしたが、数年後道頓堀に復興しました。
そのすじ横に、あやめ館という影絵を見せるところもありました。
あとでは、落語の寄席になりました。
国光という浪曲の寄席もありましたが、ここには行きませんでした。
千代の弟の十四男は、そのころちょうど3歳で、可愛い盛りでした。
私は十四男を連れて、よく御霊筋を歩いたものです。
帰りには、一つ2銭の、おまんじゅうを幾つか、必ず買って帰りました。
千代の祖父が、これを酒のさかなに晩酌していたからです。
私の店の裏通りに、勧商場(かんしょうば)といって、今でいうデパートがありました。
また、千代の店のすぐ向いには、島商店という呉服屋があり、ここの三男坊のタモツちゃんという青年はラジオが好きで、それが高じてスピーカーの製造、販売を始めました。
初めのうちは呉服屋の片隅で小さくやっていたのですが、例の不況時代ですから、本職の方がうまくいかず、そのうちタモツちゃんの兄達も一緒になって、本職をやめ、スピーカー屋になってしまいました。
これが業界を風びしたセンタースピーカーの本社です。