回顧と前進
第3話 少年期の思い出
父の教育方針 ~ 働くことの尊さ学ぶ ~
ところが、私が小学3年生になった時、兄と私は父に呼ばれました。
大事な話があるというのです。
私達二人は父の前に坐りました。
父は、兄と私に向かって、働くことをすすめたのです。
アメリカでは、どんな良家の子どもでも、みんな働いている。
そして働くことの尊さ、独立心や、忍耐、責任、奉仕などの精神を学んでいる。
だから、お前たち二人も働け、というのです。
その時の父の言葉は、もっと私達に分かるように、やさしく言ったと思うのですが、物心ついてから考えると、以上のような事なのです。
私も兄も、父を尊敬していました。「父のいうことは間違いはないんだ」
そう思って、二人は父のいう通り働くことになったのです。
父は早速、近くの牧場の知人に頼んで、二人に牛乳配達をさせることにしました。
6年間もアメリカにいて、アメリカ式のプラグマチズムの家庭教育を見てきている父にしては、子どもの教育や躾は、これに限ると思っていたのでしょう。
父は家の前に、墨でくろぐろと、大きく「牛乳配達所」と書いた看板をかかげました。
それは私達に、ちゃんと働くことの意義を教えるためだったと思われます。
それと、責任感を持たせるためもあったのでしょう。
というのは、兄と私で、たかだか20軒か、25軒くらいの配達ですから、別に生活上のことでは勿論なかったのです。
私達二人は早速、あくる朝からうす暗いうちに起こされ、父母に見送られながら家を出ました。
牧場に着くと、そこの主人と、おかみさんが出て来て、やさしくねぎらってくれました。
そして、配達について、いろいろとくわしく教えてくれました。
何を、どうしてよいか分からない私達にとっては、この優しい言葉が、身にしみ通るように、うれしく感じられました。
兄と私は、それぞれ二つの信玄袋に牛乳びんをつめ、両手に下げながら、朝早い町を、かなり遠いところまで配達して廻りました。
いまでは市役所をはじめ、いろいろなビルが建っている六湛寺(ろくたんじ)あたりも、阪神電車が開通する明治38年(1930)頃までは、さびしい墓地でした。
夜など、しばしば狸が出てきたといわれているところです。
阪神電車の運転手の人たちが、狸を轢き殺し、タヌキ汁に舌鼓みを打ったという話も伝わっているほどの、さびしいところも歩いて廻りました。
今でも忘れません。
冬のある日、雪の深い朝のことでした。
頭巾(ずきん)も、マントも真白になって、手が千切れそうに痛かったことがありました。
しまいには、感覚が無くなってしまったあげく、ある一軒の家に牛乳を届けにいくと、そこの奥さんが出て来て、私を見て言った言葉が忘れられません。
「まあ、まあ、この寒いのに、小さいからだで、よう、こんな重いもんを。さ、うちへはいって、熱いおぶでも飲んでいきなはれ」
といって、台所の縁側に休ませてくれました。
「ほんまに、かわいいぼんぼんや。ようでけるこっちゃ。おとなかて、よう真似せえしませんで。えらいぼんぼんや」
といいながら、熱いお茶や、お菓子などを出してくれました。
「どれ、手だしてみなはれ。わてがぬくめてあげるわ。まあまあ、かわいらしい手に、こんなに紐のあとつけて。いたいこっちゃろ。ほれ、こんなにかじかんで。ほんまに、おとうちゃんも、むごい人やなァ」
町の人の目には、随分ひどい親だと思われたのでしょうか。
当時の日本は、とても、そこまで分かっている人は少なかったのです。
私達兄弟だって、時には、そういう言葉を聞くと、つい、ほろりとすることだってありました。
それから、しばらく経たあと、いつか母が西宮の西の香炉園という別荘地のある所に、注文取りに連れていってくれたこともあります。
こうして、二人が牛乳配達をしているということが、学校中の評判になってしまいました。
ある日、担任の清水先生から、職員室にくるようにいわれました。
その時、先生からえらくほめられたことを覚えています。