回顧と前進
第3話 少年期の思い出
二宮のころ ~ 私も提灯を下げ賛美歌を歌う ~
長男の信助が生まれた翌年、長女愛子がつづいて生まれています。
二人の幼児をかかえての生活は、大変だったことでしょうが、父母は親としての生き甲斐と共に、クリスチャンとしての信仰心がますます強くなっていったことと思います。
このころ日本は、大国ロシアを相手に、いわゆる日露戦争の真っ最中だったんです。
明治38年(1905)3月1日、奉天の決戦で火ぶたを切ってから、血で血を洗う戦闘は1週間にも及んでいます。
そのあと「日本海海戦」のはじまる直前。当時の表現を借りれば、“危機は刻々と迫り、対馬沖の波は高く、正に風雲急を告ぐるの時”。
明治38年5月2日、私は、二宮の博愛苦学舎時代に、松本家の次男・三番目の子どもとして生まれました。この年は、奇しくも、アインシュタインの相対性理論の発表で、全世界が新たな科学の世紀に入る年でもありました。
父は私の名前を、姉の愛子と同じように、聖書の中からとってくれたということです。
よい名を付けてくれたものだと、今でも父母に感謝しています。
というのは、私が成人して、事業の失敗から大変苦労する時があるのですが、そういう時でも、私はどこかに一つの明るさがありました。
それは、望みを捨てないで最後まで忍耐する者は必ず報われる、と思っていたからです。
このため、会社の組合の人達にも
「望みがあれば求めるがよい。門をたたかなければ開かれないかも知れない。そして忍耐強く頑張ることだ。必要なことであれば、必ず与えられる。しかし、それと力で押し切ることとは違う」
とよく話すのです。
さて、二宮時代の家は、新川というところにあり、わりと大きい家だったと記憶しています。
すぐ前に、二宮神社があり、玄関を出ると、神社の境内に続いていました。
境内は、そんなに広くなかったようでしたが、ふたかかえもあるような、もちの木も、5、6本あったように記憶しています。あとで聞いたことですが、600年以上にもなるという欅(けやき)をはじめ楠や松などが、あたりを暗くするくらい繁っていました。
このころ、私達兄姉三人が、相次いでジフテリヤにかかり、姉の愛子が幼い命を失ったということを後で父母に聞きました。
明治44年(1911)四男 頼仁(よりよし)が誕生。父母はまた元気をとり戻したそうです。
そのころ、私の記憶に残っていることがあります。
父はよく大きな紙に、太い筆で何かを書いては外に張りだしていましたが、私に筆を持たせて、字を書いてごらん、というのです。
まだ、5、6歳ぐらいの頃でしたので、何を書いたか覚えてはいませんが、大きな筆を両手で握って一生懸命かいたところが、見ていた父や、おじさんに「スジがよい」とほめられたことがあります。
ところが学校では、「書き方」の点数が悪いので、とうとうきらいになってしまい、それから一度も筆を持ったことがありません。
そのため、現在では名代の悪筆家で通っていますが、素質はあったようですから、その時分から一生懸命やっておれば、もう少しは何とかなっていたのではないかと後悔しています。
同じころ、強いられたわけでもないのですが、面白半分でか、家庭環境のせいか、よく分かりませんが、父が路傍伝道に出かける時、私も提灯を下げて、賛美歌を歌いながら、ついてまわったこともあります。
そういうことがあったからかどうかは分かりませんが、そのころ「ヤソの子」という偏見を持っている人がいて、近所の子ども達から、仲間はずれにされたこともありました。
しかし、ふだんは、よく遊びました。
ある日、年上のいたずら坊主が、さびたといを投げて、それが私の頭に刺さって大けがをしたことがあります。
母の適切な処置で大事に至りませんでしたが、私が覚えている最初の大けがでした。
今でも、頭のところに、毛のはえない所があります。よっぽどひどい傷だったんでしょうね。