回顧と前進
第12話 米国電子工業視察団
パーツショウに驚嘆 ~ 最も印象に残ったショウ ~
現地では、米国ICA側のプロジェクトマネージャーであるミスター・ホワイトさんが何くれとなく私たちの面倒をみてくれました。
日本生産性本部からは、同時通訳もできる村松 増美さんと神戸商科大学助教授の大塚 俊郎さんが同行していました。
おかげで、公式訪問やミーティングの際には言葉に不自由はないのですが、自由行動の時間まで村松さんや大塚さんを独占するわけにはいきません。
外出は2、3人でグループを組み、初めのうちは“お上りさん”よろしく、ただ押し黙って町を見て歩くだけで帰ってきます。そのうち慣れてきますと、手マネ、足マネ、片言の即席英語で買い物ぐらいはできるようになりました。
米国電子工業視察団、左から3人目が筆者(CANNON ELECTRIC前で)
まるで“弥次喜多道中”さながらの面白い話も沢山あるのですが、私たちの使命は米国電子工業の視察です。エピソードや武勇伝のたぐいは別の機会に譲るとして、視察団の公式日程は、まずロスアンゼルスのハリウッドホテルにおいて、「WCEMA」という米国西部における電子部品関係の工業会のメンバーとのミーティングから始まりました。
そのあと、2、3の工場を見学したのですが、当時のわが国の電子工業とはいずれも比べものにならないスケールの大きさです。
とくに、米国西部は航空機、誘導弾、コンピューターなどの産業が盛んなところで、それに関連する電子部品の話も聞いたのですが、何もかもが大きすぎて私たちには参考になりません。
当時でさえ、電子関連部品の年間生産額は10億ドルということでした。
その意味では、私の希望で特にスケジュールの中に組み込んでもらったアルテックランシングの工場は、スケールの点からいってもちょうど手頃でした。ここでは、私のお目当てのスピーカー部門にしても、何から何までオープンに見せてくれたのです。とりわけ、平板電線をコイルに巻くエッジワイジング装置を確かめることができたのは、大変参考になりました。
このほか、米国各地の視察旅行は、私たち一行に多くの収穫をもたらしてくれましたが、なかでもシカゴの「電子パーツショウ」を見学できたことは、最も大きな成果といえるでしょう。
ロスアンゼルスにはそう高い建物はありませんが、シカゴの中心街には高層建築が沢山あります。視察団一行の宿舎、シカゴシェラトンも52階建てです。
私たちに提供された部屋は、屋上のペントハウスです。ここはホワイトハウスのようなドーム型になっている部分でした。
内部は三階づくりになっていて、他のホテル客とは別になっていましたから、それこそパジャマ姿のままで行き来もできるのです。
おまけに、キッチンやリビングルームなどまであって、広さ、部屋数は申し分ないのですが、中のつくりが部屋によって違います。
特別上等の部屋で、バスルーム付のがあるかと思うと、シャワーもついていない“女中部屋”みたいなものもあるといった具合です。
仕方がないので、部屋割はクジ引きにしましたが、運悪く“女中部屋”に当った者は「これではあんまりひどいよ」とグチのひとつも出ます。なんだかんだと言っても、日本に帰れば、みんなそれぞれ一国一城の主ですから、わがままを言いたい気持ちもわからないではありません。
しかし、東京を出てからまだ10日しかたっていないのに、こんな調子ではこれから先が思いやられるなとアルプス電気の片岡君と共に頭を抱えたものです。
それはともかく、高層ビルから初めて見るミシガン湖やシカゴの夜景は素晴らしく、とげとげしくなりかけていた私たち一行の気持ちを癒してくれるのに十分でした。
ところで、シカゴの「電子パーツショウ」ですが、これはデストリビューターショウといわれる性格のもので、全米の主だった部品メーカーが競って出品しています。
ここで、商品を手にしながら、直接セットメーカーや販売業者と商談するのですが、なにしろ規模も大きく全部見てまわるには大変でした。しかし、会場を丹念に見て歩くことで、米国の電子工業の傾向がおぼろげながら解りはじめたのです。民生用だけでもこれだけのスケールですから、これに軍需用、産業用を加えると、とてつもなく大きな産業だということになり、ただもう驚くばかりでした。
まったくうまい具合にスケジュールを組んでくれたものですが、このショウはいまひとつ、私たちに大きなお土産をもたらしてくれました。というのは、このときのあまりにも素晴らしい印象がきっかけとなって、その翌年から東京で「パーツショウ」を開くことに発展していったのです。