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回顧と前進

第12話 米国電子工業視察団

『松本望著「回顧と前進」』

米政府招待の視察団  ~ いずれも米国ははじめての12人衆 ~

ところで、話は少し変わりますが、昭和33年(1958)正月のことです。

日通連の会合に出ていましたら、当時、無線通信機械工業会の業務部長をしていた石塚 庸三君(元パイオニア社長)が、私を呼んで相談があるというのです。

話というのは、米国務省の海外協力会(ICA)から、日本生産性本部を通じて、日本の電子工業界の人たちを米国視察に招待したいから中小メーカー12名を人選してほしい、といわれたというのです。旅費や宿泊費など一切をICAが負担する、という願ってもない招待でした。当時は、海外旅行などままならぬ時代でしたから、この条件ではわれもわれもというのは必至です。石塚君は、視察団の団長を私にということです。降って湧いたような話で、まことにありがたいことでした。


昭和32年5月14日に出発した米国電子工業視察団一行。
後列中央が筆者

出発はその年の5月でした。事前に予備知識を得るための研修会も予定されていましたからメンバーの人選を急ぐ必要があります。

石塚君の頭にはほぼ人選ができていたようですが、私にも相談がありました。

しかい、こういう話はどこからか洩れるものです。自薦組から他薦組まで、はては政治力まで使っての圧力もあるなど、大変な騒ぎでした。最終的には石塚君の決断で無線関係8名、有線関係4名の割りふりになったのです。

有線関係からは長谷川電機製作所の都築 武一氏、田村電機製作所の田村 邦夫氏、高見沢電機製作所の高見沢 敏夫氏、山光社の横山 又蔵氏。

無線関係からは片岡電気(現アルプス電気)の片岡 勝太郎氏、老川工芸社の老川 正次郎氏、富士製作所の佐藤 俊氏、理研電具製造の島宗 昭次氏、小林電機製作所の小林 稔氏、国洋電機工業の上野 寛氏、三岡電機製作所の岡上 新太郎氏、それに私です。

いずれもアメリカは初めてという人ばかりで、英会話も少しは解るという人が2、3人いるだけです。この場に及んで英語の勉強でもありませんから、せめて向うのマナーくらいは覚えておこう、ということで、全員が京都の都ホテルに泊まり込み食事の作法などをにわか勉強したものです。

そのほか生産性本部のコンサルタントから、米国の近代経営の現状についての講義も聞きました。

また、当時のわが国の代表的なラジオやテレビ工場の見学やメンバー各社の工場を、お互いに披露し合うなど、予備知識を吸収するのにとにかく大童(おおわらわ)でした。

視察団の滞米日数は52日間という長期間の予定です。各社ともそれぞれ社を代表する人たちが参加するのですから、不在中の仕事の段取りやら大忙しです。

また、2か月近い“長旅”のこと、手回り品や身の回りのものなど何をどれくらい持っていっていいものやら、これまた準備が大変です。

予備勉強のために、松下電器の電子管工場を見学した後のことでした。大阪の日通連関西支部の主催で壮行会が開かれました。

席上、松下 幸之助社長(当時)から激励の挨拶があり、その後で私たちメンバーの一人一人に対して携帯用の仁丹を下さったのです。

後で秘書の方に聞きますと、壮行会に出席する途中薬局に立ち寄って、松下さんがご自分で買われたものだということです。小さな小粒の仁丹ではありましたが、その細やかな思いやりはいつまでも忘れ得ない思い出のひとつとなりました。出発1か月前の4月には、出入りの下請の人達が音頭をとり、会社の幹部と一緒に、私のために盛大な壮行会を催してくれました。

いよいよ出発の日、羽田空港には私たちを見送る人でごったがえしていました。

私はお断りしてありましたが、メンバー会社の中にはまるで出征兵士を見送るように“のぼり”を立てている人もいます。あちこちで万歳の声も上がるなど、それは賑やかな歓送風景でした。

さて、型通りの挨拶も済んで、報道関係者のカメラマンのフラッシュを浴びながら通関手続を済ませ機上の人となったのです。搭乗機は、ノースウエストの“ダグラスDC7”。もちろんジェット時代に入る前でしたから、プロペラ機です。

アンカレッジで入国手続を済ませ、バンクーバーで給油、シアトルに着いたのは5月14日でしたが、まだ肌寒さを感じる気候でした。

その日は飛行機の疲れをとるためにシアトル泊まりです。このシアトルには、弟の家内の母が住んでいましたので、早速電話をしておきました。

いよいよ明日はロスアンゼルス、視察旅行の第一日が始まります。

旅行の諸費用は招待側の米国ICA持ちですが、それ相応の小遣いも必要です。

しかし、当時の外貨事情からドルの割当は一人500ドル止まりでしたから、心細い限りでした。

カメラのフィルムなど必要とわかっているものは、あらかじめ用意していきましたが、それでも500ドルでは到底52日間も持つはずがありません。

そこで、私は事前に当社と取引のあったバイヤーのミスター・コーエンにドルを都合してくれるよう頼んでおいたのです。ミスター・コーエンは、ロスアンゼルス空港まで迎えに来てくれていましたので、彼の車に乗り一行よりひと足先に宿舎のシェラトンタウンホテルに落ち着いたのです。そして、頼んでいた2千ドルを受け取りました。

この時の2千ドルについては、商品代金のうちから差し引いてもらうことにしてありました。

さしずめ為替管理法違反ということになりますかね。おかげで大いに助かりましたが、そのうちの半分ぐらいは同行の人たちに借りられてしまったのです。

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