回顧と前進
第11話 音の入口から出口まで
テレビ生産に挑戦 ~ 私は実に欲の深い男です?! ~
当社が本格的なハイファイアンプを売り出したのは、昭和32年(1957)のことです。
この年、AM-V50、AM-V100、AM-R80、AM-Q120と4種のAM-SW2バンドのチューナー付ハイファイアンプを発売しました。
しかし、音羽工場はスピーカーの増産に追われて、アンプをつくるスペースがありません。
困っておりましたら、秋葉原のミナミ無線の南 学さんが持っておられた“工場アパート”が板橋にあり、一部は愛興電機(アイワ)の池尻さんが使っていましたが、二階はあいているとのことです。さっそく、そこの二階百坪ほどを借り受けることにしました。
生産ペースは日産20~30台程度で、事業としてペイするにはなかなか先が長そうでした。
テレビ放送の開始にともない受像機の生産に挑戦した(PVK-14B)
それなのに、私はなんと欲の深い男なのでしょうか。
つい数年前、物品税の支払いにもこと欠き30名の従業員を解雇したり商工中金へ日参したりしたことなど、すっかり忘れたようにこんどはテレビの生産にも手を出したのです。
NHK東京テレビ局が放送を開始したのは、昭和28年(1953)2月のことでした。
戦争によって、一時中断されていたテレビの研究開発も立ち直りは意外と早かったのです。それは、基礎技術が戦前にある程度完成していたからではないでしょうか。
というのは、昭和17、8年(1942~3)頃、コロムビアさんにスピーカーを納めに行った折、完成品に近いテレビ受像機を見たことがあるのです。
昭和28年8月には、正力 松太郎氏の日本テレビジョン放送網(NTV)が、わが国初の民間テレビ局として開局しました。翌29年3月になると、NHKの大阪、名古屋両テレビ局も放送を開始しています。このようなテレビ局の相次ぐ開局は、家電業界に大変な刺激を与えました。
誰もがこの世紀の産業にあやかりたい、と思うのはごく自然です。
テレビ受像機を中心に、あるところは放送装置を、あるいは、それらの部品類を、そしてアンテナをと、われもわれもと名乗りをあげてきました。
テレビ受像機については、昭和28年(1953)から29年にかけて、まず早川(シャープ)、松下、東芝、八欧(ゼネラル)、コロムビアの先発5社が発売を開始しました。
次いで昭和30年には、三洋、三菱、ビクターが、そして翌31年になると、日立、新日電なども戦列に加わっています。
このほか、いわゆる“キット方式”などで進出した中小メーカーを加えますと、一時は何と42社を数えるなど、まさに百花繚乱(りょうらん)といったところでした。
当社も、その他大勢組の1社だったのです。ところが、テレビをつくるには技術者が足りません。
しかし、思ったらすぐやらなければ気がすまない、せっかちな私のことですから、加藤 忠君を技術担当にしてとにもかくにもテレビの生産に着手したのです。昭和30年秋頃のことでした。技術陣が多少手薄であっても、部品を買ってきてのアッセンブルですから、たいしたことはあるまいとたかをくくっていたのです。
だが、実際には部品にいいものが少ないことなどもあって、なかなか難しいものでした。
そのうち、知人の鈴鹿 正保さんのお世話で、中外無線でテレビを手がけていた宮口 正美、八幡 一弘の両君が入社してきたりして、技術陣もどうやら格好がついてきたのです。
工場としては、ピックアップの生産を中止していた下落合工場を使うことにしました。
しかし、テレビは容積があり場所をとりますから、下落合の工場では手ぜまです。どこか良いところはないものかと探していましたら、国電・巣鴨駅近くの文京区千石町に、山口電機さんの工場が手に入りました。この工場は、山口電機さんがかつて関東高声器工業協同組合を通して商工中金から融資を受けた際、担保に入れていたものですが、事業の行き詰まりから手放すことになったものです。
その整理に当っては、商工中金で処分をしますと、債務が残り組合員が相互にかぶらなければなりません。
そこで、少々割高にはなりましたが、私が買い取ってここをテレビ工場にしたのです。
さて、最初の百台は、社員や出入りの下請業者の人たちにモニターとして安く買ってもらいました。こうして、しばらく様子をみた上で月産500台くらいまで持っていこうと考えていたのです。