回顧と前進
第11話 音の入口から出口まで
音の入口から出口まで ~ 将来へ賭けた夢に向かって ~
戦後の混乱期から朝鮮戦争による特需景気を経て、業界全体が本当の立ち直りをみせたのは、ラジオの“民放ラッシュ”を迎えてからです。
この頃には、もうNHKの全国ネットもほぼ完成の域に達していました。ラジオ受信機の普及に加速度がつくにつれ、私たち部品業者も大変うるおいをみせていたのです。しかし、当社ではスピーカー中心の商売には変わりはありませんが、パイオニアの将来のためにその他の音響機器についても開発の手をゆるめませんでした。
PA用トランペットスピーカーの商品化もそうですし、また、ダイナミックマイクロホンの開発にしてもそうした考えによって進められたのです。だが、これらは業務用などが主で、あまり数量は期待できません。そこで、ピックアップの生産に乗り出したのです。
これも思ったより簡単につくることができたのですが、高級品とまではとてもいきませんでした。
昭和27年(1952)頃のことで、まだハイファイピックアップにはなっていない時代の話です。当時は78回転レコードのSPが主流の時代でしたから“タンノーバー”といって、SP・LP兼用のクリスタルピックアップとか、マグネチック式でもごくありふれたものしか当社ではつくっていなかったのです。
私は少しずつ高級品を開発していくつもりでしたから、新宿区下落合にピックアップ専用工場をつくることにしたのです。
昭和27年(1952)に始まった「全国ラジオ祭」。祭典委員長を務め、オープンカーでパレードの先頭を進む。
福音電機の宣伝カー
大阪の“大黒おこし”で有名なお菓子屋さんの工場が売りに出ていたのを買い取り、内部を改装しました。
ところが、“大黒おこし”の原料でしょうか、サッカリンのような甘い匂いがいつまでもぬけないのには閉口しました。
この工場でつくったピックアップは、PIE1000番と同2000番です。
1000番はクリスタル式で、“タンノーバー”もありましたが、2000番はマグネチック式でした。この両機種で8種類ほど発売しました。
当時、ピックアップにも30%の物品税がかけられていました。
グレースとかサミットなどは手づくりともいえるやり方で、高級品を少量にしかも高い値で売っていたからまだ良かったのです。しかし、私のところはピックアップ専門ではありませんから、そう精密なものはできません。高級品をつくれる技術者がいなかったのです。
割りあい簡単につくれるということで、業者の数も増え物品税を脱税して市場を荒らす、例の“ゲリラ業者”もずいぶん出てきました。このため値段の競争が激しくなり、とても商売になりませんので、そのうちピックアップの生産を中止してしまったのです。
スピーカーにも、当時、同じように30%の物品税がかけられていたのですが、当社のは高級品が多かったし、専門メーカーとしてブランドもよく通っていましたから、他社より多少価格が高くても売れたのです。
それに、当社はセットメーカー納めのものも数多く生産しています。このほうは免税手続きだけで物品税を払わなくてもいいわけですから、他社との競争も対等にできました。
そんなわけで、スピーカーの受注量もますます増えて生産の合理化にも真剣に取り組んだのです。
このようにブランドに信用もつき、合理化による大量生産で経営的にもだいぶ余裕がでてきましたので、当社でもアンプをつくってみよう、ということになりました。音の“入口”から“出口”までの商品を一貫してつくることが、私の将来へ賭けた夢だったのです。
そこで、富田音響研究所の富田 嘉和君を顧問にしてアンプの研究をすることにしました。
その技術者の中には、MEGコンサート時代に富田音響でアルバイトをしていた野原 俊二君もおり、そのうち小規模ながら生産を始めたのです。
当社が「HF-10A」の型番で、初めてプリメインアンプを商品化したのは、昭和31年(1956)のことでした。さて、発売はしたものの設計に無理があったのでしょうか、長時間使用しますと大変熱をもってくるのです。これでは積極的に売るわけにはいきません。
結局、根本的な技術改良を迫られ、次の製品が出るまでに1年ほど時間がかかったのです。