回顧と前進
第10話 部品業界のリーダー
将来への夢 ~ 遺書に“松本さんへ売る” ~
そこは、三越百貨店の元重役で金塚さんという人のお屋敷跡です。
千坪ぐらいの敷地の向う側は、さらに10メートルほどの崖になっていました。そこの横井戸からは、きれいな清水が湧き出しているのです。
清水は小川になって、立派な庭石の間を流れていました。かつては、そこでよく野点(のだて)の茶会などが催されたという話です。しかし、戦災に遇ったまま、まったく手入れがされておらず、庭一面草ぼうぼうで銘木も黒く焼けただれていました。
しかし、その屋敷内の一番奥まった焼け残りの離れ家には、未亡人の金塚 つきさんという70すぎのおばあさんが女中さんと二人で住んでいたのです。
私は、もしこの地所が手に入ったなら、モダンな工場を建て庭をつくり直して「公園工場」のようなものにしたいものだと思っていたのです。そのことを金塚さんに話し、是非譲ってほしいと申し込んだのですが、はじめのうちは売る気はないといって話に乗ってくれませんでした。
それでも、諦めずに再三お訪ねしてお茶などをご馳走になりながら、お話相手にもなっておりましたから、戦後の筍(たけのこ)生活のせいでしょうか、
「売ってもいいのだが、死ぬまでここにいたいので前の半分だけ分けてあげましょう」ということです。
福音電機音響研究所
金塚のおばあさんが出入りする道を残すと、変な地形になりましたが、それでも600坪ほどありました。ほしい、と思っていた土地が手に入ったのです。それは大変に嬉しいことでした。
昭和26年、春のことです。私は、さっそく第二工場の建設にとりかかりました。
地形の関係や資金の関係で、あまり大きなものは望めません。
約50坪の総二階建、延べ100坪です。一階は生産工場で二階には技術部を移し、そこに試聴室を設けるなど、当時としてはなかなか斬新なものでした。
入口は敷地の一番西の端で、坂道になっていました。玄関のガラス戸には将来の夢を託して、おこがましくも金文字で鮮やかに
「福音電機音響研究所」という文字を入れたのです。ここは住宅地区ですから、工場では許可にならないのです。広い土地に小さな建物という殺風景なものではありましたが、それでも将来の工場のレイアウトを考えて、後のちまで働きやすい環境にしました。
さて、音響研究所はできましたが、まだ無響音室をつくるほどの力はなかったのです。
無響音室となると、それなりの設計もし鉄筋コンクリートの建物にしなければならないのです。
いつか必ず実現したいと願いながら、音響研究所に移した例の無響音室の代用品、“大蛇の寝床”で測定を続けていました。
ところが、NHKの技研の人達がやってきては、
「こんな箱のなかでやるより、このあたりなら青天井へ向けて、空間を利用した方がずっといいだろう」と言うのです。そこで、ベランダをつくり、さながら天文台の望遠鏡のように大砲のお化けのような筒を青空へ向けて突っ立て、そこにスピーカーをセットして測定することにしたのです。
確かに“大蛇の寝床”よりよくなりましたが、暫らくすると近所の人達から「うるさい」という苦情が出てきました。
低音から高音へ「ブウー」とうなる、オッシロで想定する音がえらく気になるというのですが、おかげで使用時間を制限させられ大変不自由したものです。
昭和27年(1952)になりますと民間放送の開局ラッシュもあって、さらに増産しなければならなくなりました。そこで、新たに第三工場を建てたのです。
これは、平家建てですが、コンベヤを入れた量産工場にするため、天井を高くし中央に“明りとり”を入れたちょっとしたものでした。
この頃のことです。金塚のおばあさんが病気で寝込んでいる、とは聞いていたのですが、昭和28年の初めに亡くなられました。お葬式も済んで親族会議が開かれた時に、突然、私が呼ばれたのです。何事かと思って行ってみますと、立派な人達が大勢集まっているのです。
後で、その方々に紹介されましたが、宮内省に勤めている人とか商社の重役さんとか、とにかく肩書のある人ばかりでした。
話というのは、金塚のおばあさんが住んでいた残りの土地のことだったのです。
驚いたことに、おばあさんの遺書には、この土地は松本さんに売るようにと値段までしたためてあるということです。生前、残りの土地は私に売って下さるということにはなっておりましたが、契約書をつくるまでには話は進んでいませんでした。
まさか土地の値段まで入った遺書があるなどとは思いもよらないことでした。
おかげでその遺書の値段通りとはいかないまでも、残りの土地を割安で譲り受けることができたのです。