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回顧と前進

第10話 部品業界のリーダー

『松本望著「回顧と前進」』

「PE-8」開発の頃 ~ 技術部の“限りなき挑戦” ~

昭和23年(1948)5月に始まった労働争議も、7月にはやっと終ったものの、技師のT・N君がやめたことなどもあって技術陣が手薄になり困っていました。

そこで、スピーカーの貿易の話で、当時会社に出入りしていた片山 石雄君を技術部長として迎えることにしたのです。彼は無線の技術にも詳しく、それまでにも何かとアドバイスをしてくれていましたので、入社する2、3か月ほど前から顧問の形で技術面をみてもらっていた人なのです。

50の坂を少し過ぎていましたが、NHK技術研究所の人達とも懇意にしており、当社が同研究所と技術援助契約を結ぶようになったのも彼の力に負うところが大きいのです。


当時のオーディオファンから長く賞賛された「PE-8」

ところで、音羽に第二工場を建設した際、本工場の二階に技術部を設けたことはすでに述べましたが、まだ人員も少なく設備もたいしたものはなかったのです。

しかし、良いスピーカーをつくるには、周波数特性を正確に測定することが必要なのです。オッシロとか必要な計器類は一応備えておりましたが、無響音室でテストしたわけではありませんから、どうしても精密なデータが得にくいのです。そこで、手さぐりで設計し試作したスピーカーを、その都度NHKの技研へ持ち込んで測定してもらい、不完全な面は改良するという繰り返しなのです。

そんなことで、うちの技術屋さん達は音羽とNHK技研のある世田谷・砧の間を足繁く往復したものでした。

確か昭和24年だと記憶していますが、池上通信機が周波数自動記録装置の第一号機を開発したというので、さっそく購入することにしたのです。機械は取り付けましたが、肝心の無響音室がありません。

そこで、その代用として、1.5メートル四方で長さ8メートルに及ぶ大きな箱を作りました。

技術部の部屋は狭かったので、半分は物干し場に突き出してしまうという、いわば無響音室ならぬ“無響音箱”といったところです。社員達は「うなぎの寝床」ということは聞いたことがあるが、これはさしづめ「大蛇の寝床」だなどとへらず口をたたいていました。

それはともかくとして、自分のところで曲りなりにも測定できるようになったことは、新製品の開発にさらに一段と拍車をかけることになりました。

当社が、NHK技研の協力を得て“MK-5”というマグネットを使ったパーマネント型ダイナミックの新製品を商品化したのは、昭和25年(1950)の初めのことでした。

これがのちのちまでオーディオ・ファンの方達によって賞賛され、語り継がれる「PE-8」です。

この頃、高級電蓄用のスピーカーとしては、ハークとかフェランティのフリーエッジものが人気を集めていました。これらは手造りのコーン紙を使ったものですが、大阪音響でもノンプレスコーンの、なかなか良い製品を開発し全国的に盛んに宣伝して売り込んでいたのです。

東西のスピーカーメーカーも、この時分にはすでに40社ほどにふくれあがっていました。

勢い新製品の開発競争や売り込み戦も、激しさを増していったのです。

そんな中で、当社の商品群も次第に充実しつつありました。

パーマネント型では小型の3.5インチから12インチまでの6種類。

またフィールド型は6インチから16インチまで、幅広い生産を行うまでに至っていたのです。

市販向けの需要が旺盛なのに加えて、セットメーカーからの受注もそのうち増えてきました。

そこで、マグネチックスピーカーは近所に新しく開業した二軒の下請屋さんにやってもらうことにしたのです。またフィールドのボビンとか、コイル巻きなどを内職的にやってくれるところも出てきましたので、だいぶ助かりました。

昭和25年(1950)には、屋外用のトランペットスピーカーの製作にも乗り出したのです。

初めは16インチのレフレックス型から手がけましたが、その後2、3年のうちに丸や角の大型、小型など12種類ほどつくるようになりました。

こうなってきますと、建てた当時はスペースにかなり余裕のあった第一工場も手ぜまになってきたのです。音羽7丁目でも8丁目でも“売り地”さえあれば、買ってきたのですが、いずれも飛び地ばかりで工場を建てるには狭すぎるのです。

そこで、関口台町といって、町名は違うのですが、第一工場との地続きで、2メートルほどの高台のところに1千坪ばかりの空地があることに目をつけました。

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