回顧と前進
第10話 部品業界のリーダー
部品業界のリーダーへ ~ 部品メーカー7社でラジオのキット会社 ~
昭和24年(1949)11月、関東地区のスピーカーメーカー18社が加盟して「関東高声器工業共同組合」が設立されました。事務所は神田旅籠町3丁目にあったコンデンサー会館内におき、理事長には私が推されて就任しました。
組合の主な仕事としては、組合員各社の手持ちの手形を共同で保証し合うことで、商工中金から一括して融資を受け、組合員に転貸しするのです。その貸しつけ金のなかから若干の手数料をとり、組合の運営費に当てていました。
もちろん、組合員によって貸しつけ枠があり、最高額が決まっています。また、多額の場合は担保もとります。市中銀行の金融事情が悪い時でもありましたから、大いに喜ばれました。
このほか、当時手に入りにくい資材の共同仕入れも行いました。転貸融資の手続きや保証、共同仕入れの条件交渉などで理事長としての私の仕事も結構大変なんです。
毎日のように事務所に顔を出し何時間かは決まって仕事をします。場所が神田電気街の中ですから、組合に別段用事もないのに話し込んでいく人もいました。
有名部品メーカー7社が集まって設立した「JRC」の広告
組合では、週一回役員会を開いて手形の審査などをします。たいてい土曜日の午後に開くのですが、役員会が終ると近くで一杯やろう、ということになり、それがまた、仲間同士の楽しみの一つでもあったのです。こんな間柄でしたから、理事長としての責任上のこともあったのですが、倒産した組合員の担保物権を買い上げてやったり、枠外の手形を個人的に割引いてあげたりしたことも何回かありました。この組合は、昭和43年(1968)5月まで一応名をとどめるのですが、福音電機をパイオニア(株)と名称変更した36年頃になりますと、組合から脱退していく業者も出てきて中金の利用者も減っていったのです。
したがって、この頃から組合の事業も縮小されていくのですが、私のあと理事長を引き受けて下さったアシダ音響の柳川 春雄さんの時代には、融資事業などは事実上休止状態にありました。
その後、スピーカーメーカーの団体活動は、電子機械工業会に一本化されていくわけですが、規格の統一とか輸出検査とかの問題になりますと、電子機械工業会に入会していない業者の扱いがどうしてもネックになります。
そこで、昭和40年2月、アウトサイダーも含めた29社が加盟して日本スピーカー工業協議会を設立し、全国的なスピーカーメーカーの協議機関とすることに成功しました。
この時も、私は推されて理事長になり、事務所を湯島の全ラ連会館の中に設けたのです。
昭和47年まで、理事長職にありましたが、ご承知のようにこの頃にはすでにパイオニアもスピーカーの専門メーカーではなくなっていましたし、電子機械工業会の部品運営委員長をやめたことなどもあって、理事長をフォスターの篠原 弘明社長に代わってもらいました。
ここらで、もう一度話題を昭和23年(1948)頃の出来事に戻しましょう。
その年の終り頃です。部品メーカー7社の社長さん連中が集まって、大変な相談を始めたのです。
戦時中はセットメーカーに隷属していた部品メーカーもこの頃にはもう一本立ちして、かなりの力をつけていました。とりわけ、市販に力を入れていたところは、そのブランドも広く認められ勢いに乗っていたのです。このように経営も比較的順調にいっていたわれわれ部品メーカー7社のところへ、かつてラ配(日本ラジオ受信機配給会社)にいた鍔孫ニという人が、共同で出資してラジオのキット会社を作らないか、という話をもちこんできたのでした。
この7社とは、エルナーの中村氏、スターの佐藤氏、菊名の松井氏、エレバムの宮田氏、老川工芸の老川氏、大阪・コスモスの福島氏、それにパイオニアの私です。
当時、大手の受信機メーカーは経営不振にあえいでおり、中には倒産に追いこまれたところもあるぐらいにでしたから、それはおもしろい、やろうじゃないかということに衆議が一決しました。
さっそく各社10万円ずつ出資しあって、ここにジャパン・ラジオ・コーポレーション(株)というラジオのキット会社が設立されたのです。社長はエルナーの中村氏で、専務には鍔氏が就任しました。台東区の金杉2丁目に工場を借り、各社の部品を持ち寄ってキットに組み合わせるのですが、工場の方は、木村 不二男氏という元商工省中小企業課出身の方にみてもらいました。
木村さんは、かつてわれわれ部品メーカーに対する資材割当と、その獲得に力を貸してくれた人だったのです。しかし、所詮思いつきで始めた事業です。肝心の販売政策にしても、しっかりしたものを持っていたわけではありません。
そのうち、会社の略称「JRC」に対しても、すでにその名称を登録してあった日本無線さんから抗議が出る始末でした。まるで、“船頭多くして、船山に登る”のたとえのように、どうにも動きがとれなくなってしまったのです。