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回顧と前進

第11話 音の入口から出口まで

『松本望著「回顧と前進」』

万国博でグランプリを獲得 ~ “スピーカーのパイオニア”信用も人気も定着 ~

内田 三郎君が技術部長として入社したのは昭和28年(1953)の初めですが、その頃から当社も大学や高専出のエンジニアを積極的に採用しはじめました。

これらの技術陣によって、新製品も続々と誕生していったのです。

好評を博した「PE-8」の完成は、まだ片山君が技術部長をしていた昭和26年(1951)春のことですが、その後、これはセンチ表示になってから「PE-20」となり、引続いて「PE-12」「PE-16」など、次々とシングルコーン時代のベストセラー商品を生み出していきました。

内田君の時代になると、いろいろと業界の話題をにぎわした面白いものが出てくるのですが、そもそも「ハイ・ファイ」という言葉はいつ頃から使われるようになったのでしょうか。

私が西川電波の西川 義一君とハイ・ファイ議論をしたのは、昭和24年頃だったと思いますから、かなり古い話になります。確か外国の音楽関係雑誌を見て「ハイ・ファイ」だ、いや「ハイ・フイ」というんだ、などと言い争ったのです。このことがあって2年後に、当社の「PE-8」が出るのですが、この時でもまだ「ハイ・ファイスピーカー」とは言っておりません。

それより前、昭和25年にフィールド型12インチの高級品を売り出していますが、その時は「完全ダイナミック」と宣伝しています。当社が「ハイ・ファイ」の文字を初めて使ったのは、昭和28年「PE-8」を「ハイ・ファイ高忠実度スピーカー」とうたって宣伝した時です。

昭和29年になりますと、業界でもだいぶ使われるようになりました。

しかし、大方は「Hi・Fi」と横文字で表現しています。

なかには「ハイ・フイ」といっていたところもありますが、当社では相当長い期間「ハイ・ファイ」に統一して使っていました。また、この種のものを「プロフェッショナル・スピーカー」ともいって宣伝していたところもあります。

そのうち、スピーカーは複合型時代になり「コアクシャル・ツウ・ウェイ」や「ダブルコーン」などと呼ばれる高級品が出てきました。

内田 技術部長が設計したものに「メカニカル・ツウ・ウェイ」があります。「PIM-6」、「PIM-8」など3機種に採用しましたが、非常に好評でした。



ブラッセルで開かれた万国博でグランプリを獲得した「無指向性4ウェイスピーカーシステム」

同時に、高音専用の「ツィーター」も多種類つくりました。とくに「無指向性ツィーター」は良いものでした。高音部というのは、指向性が強いのでなるべく拡散させるように設計するのですが、これは完全な無指向性で、周囲に高音が拡がるようになっています。

このアイデアを中音や低音にも生かして「無指向性4ウェイスピーカーシステム」をつくってみました。高さが2メートル、下の方の直径は80センチメートルもある見事なものでした。

これを、その年の昭和33年(1958)に、ベルギーのブラッセルで開かれた万国博に出品し見事にグランプリを獲得したのです。

同時に、通産大臣からもその名誉をたたえて表彰を受けました。

私は、早くから宣伝には強い関心を持っており、前にも触れましたように、業界紙に手を出して失敗したのもそのあらわれの一つだったのです。

万国博への出品からして、当社の技術の優秀性が世界的に認められれば、宣伝効果も大いに上るだろうと考えたからでした。

この頃には、もう“スピーカーのパイオニア”として信用も人気も、国内ではだいぶ定着していましたが、海外からもかなり以前から引き合いがあったのです。

最初は、昭和23年(1948)頃のことで、当時はまだサンプル程度の注文でした。

アメリカのバイヤーがやってきて、数量がまとまりだしたのは、パーマネント型が本格化し、「ツウ・ウェイ」や「ツィーター」などの高級品を売り出すようになった昭和28、9年頃からです。

しかし、私は自分のほうから積極的に打って出ようとは思っていませんでした。

国内販売を充実させることがまず先決だと考えていたからです。社員達にも
「日本一にならなければ、世界一になることもできないのだ」と常に言っていました。

ですから、良い商品を適切な宣伝によって拡販することは、かなり思い切った宣伝費の使い方もする考えでいたのです。

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